yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『芝浜革財布(しばはまのかわざいふ)』壽初春大歌舞伎@大阪松竹座 1月16日夜の部

中車の政五郎、扇雀のおたつの演技に魅せられ、あっというまに時間が経った。江戸っ子の夫婦愛を描いて秀逸。夫婦それぞれの奏でる旋律がときとしてはなめらかに調和し、ときには激しく不協和音を響かせつつ、さいごには大きなハーモニーになる。不協和音といっても、西洋の夫婦の確執ドラマのような劇的な相克ではない。また、調和といっても、西洋演劇にあるようなドラマッチックなものではない。それはいかにも「日本的」なもの。ちょうど小津安二郎の映画がそうであるように。しみじみとした余韻が残る芝居だった。後味がめっぽう良い。

芝居自体がとことん江戸前。洒脱。主人公の政五郎、江戸落語によく出てくる典型的ダメ男。中車が『らくだ』のときとは違い、自然体で演じているのがよく分かる。完全に受肉化していた。あまりにも月並みな比較だけれど、上方は商人文化なのに対し江戸は職人文化。価値観が違えば、人も違ってくる。中車はやっぱり江戸の人なんですね。彼の一挙手一投足、台詞の端々まで江戸前。江戸の庶民の価値観を具現化してみごと。彼が動き、話すたびに、「江戸前」が立ち上がってきて、「あぁ、江戸だ!」と何度口に出してしまったことか。みているだけでこちらも嬉しくなった。彼が歌舞伎のひとだと納得させられた。

対する扇雀のおたつ。もう「上手い!」としかいいようがない。最初の演目、上方狂言の『桂川連理柵』では、亭主の不始末を庇う出来た貞女の女房を演じてみごとだったけど、こちらの江戸前の「貞女」はそれ以上だった。それこそ落語に出てくる長屋のおかみさん。どこまでも亭主思い。上方風の「情の深さ」といったのではなく、どこかさっぱりしている。微妙に変わる顔の表情、肩の落とし方、お尻のつき方、そして情の籠ったことば、それらすべてに「おたつ」がどういう女なのかが、表されていた。中車の政五郎と互角に組みつつ、さりげなく彼をサポートしていた。

さらにワキでいうと、大工、左官といった「職人』仲間の男たちを演じた亀鶴、橘三郎も、江戸前の価値観を無理なく表していて、中車のそれと調和していた。

中車と扇雀の絡んだ芝居がーー江戸ものであろうが上方ものであろうがーー今後増えることを願っている。以下、「歌舞伎美人」からの「配役」と「みどころ」。

<配役>
魚屋政五郎   市川 中車
大工勘太郎   中村 亀鶴
左官梅吉    嵐 橘三郎
金貸おかね   中村 歌女之丞
大家長兵衛   片岡 松之助
姪お君     市川 笑也
政五郎女房おたつ中村 扇雀

<みどころ>
◆これぞ江戸前。胸のすくような楽しさと情。笑って泣かせます!
 ひとはいいのですが酒好きで怠け癖のある魚屋政五郎は、ある朝、芝浜海岸で大金入りの革財布を拾います。しめたとばかりに仲間を集めて大酒盛り。ところが、一晩寝て目覚めると女房のおたつは、夢でも見たのだろうと取り合わない。反省した政五郎は自戒の念から一念発起。酒を断ち生まれ変わったように働き始めます。そして3年の月日が経ち…。
 人情噺を元にした、笑いあり、涙ありの作品です。

『らくだ』が上方言葉だったのに対し、こちらは江戸言葉。「ひ」が「し」になってしまう。中車の江戸弁、完璧。当たり前か。

残念だったのは三階席がいっぱいでなかったこと。松竹座の規模だと、三階席のうしろの方でも舞台はよく見える。こんなに良いお芝居。実際に足を運び、めったにみられない素晴らしい舞台を堪能して欲しい。