yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

歌舞伎NEXT『阿弖流為』染五郎、勘九郎、七之助主演@新橋演舞場7月24日昼の部

劇団新感線の中島かずき作、いのうえひでのり演出のこのお芝居、22日に続き2回目。2回観てあらためて強く感じたのが、「主題」をかなり鮮明に打ち出そうとしているということ。それは今までの歌舞伎にはなかったもの。脚本の中島かずきらしい。高い志、至誠、高潔さ、といった人としての徳が政治によって利用され、果てにはつぶされてゆく。一言でいえば「私」が「公」によって食い潰されて行くという実社会での現実。やりすぎると演劇ではなくなってしまう。そこのところのきわどいバランスをとっていた。私としてはもう少し演説、説教を減らして欲しかったけど。「ことばではなく、役者の身体をして語らしめよ」って思いながら観ていた。救いは藤原稀継や御霊御前がかなり滑稽に描かれていたこと。これこそ歌舞伎役者の力だろう。

目を惹くチラシを「歌舞伎美人」から。


歌舞伎と新感線との融合(染五郎によると「混ぜる」に「爆ぜる」を足したとのこと)をもくろんでいるという言葉通りの実験、成功だった。以前に新感線の『髑髏城の七人』を観てがっかりしたが、そのときのマイナス点は歌舞伎役者が演じることですっきりと、あっけないほどに解決されていた。それどころか、プラスに転じていた。「歌舞伎」を使って成功したのは役者だけではない。その演出も。以下にいくつか挙げる。

まず殺陣。殺陣が幾通りもある。スピードの早い新感線っぽいものから、歌舞伎風のゆっくりとしたもの。『髑髏城の七人』で不満だったのは殺陣がシャープさに欠けていたこと。早乙女太一のみが見れるものだった。大衆演劇的な殺陣の強さと美しさを思い知った。

次に見得。見得が決まっている。舞台両花道を挟んでの見得。カッコよさの極み。染五郎が見得をきれば、負けじと勘九郎も。それがわくわく感を募らせる。歌舞伎をみているときのあのわくわく感。「あー、やるだろうな」ってところで、やっぱりやってみせる見得。たまりませんよ。

染五郎と勘九郎の剣の闘いぶりの写真を公式サイトから。

そして歌舞伎調のセリフとその発声法。セリフが山を上げる感じをうまく出せている。合わせて発声がみごと。七之助が舞台に登場して言う最初のセリフを聴いたとき、ぞくぞくっとした。歌舞伎の発声。声がつぶれていない。日によっては二回公演。今日で初日から17日経過。それでこの声の力強さ。ただみごと。さすが歌舞伎役者!歌舞伎の発声がいかにそのエネルギーを醸し出せるか、改めて感心した。それと歌舞伎的な身体の動き。見得をはるときの、あのエネルギーをいったん溜めてそれを一度にはきだす感じ。あれこそまさにそれですよ。

あらためて歌舞伎役者の配役の一覧を。

阿弖流為:市川 染五郎
坂上田村麻呂利仁:中村 勘九郎
立烏帽子/鈴鹿:二役 中村 七之助
阿毛斗:坂東 新悟
飛連通:大谷 廣太郎
翔連通:中村 鶴松
佐渡馬黒縄:市村 橘太郎
無碍随鏡:澤村 宗之助
蛮甲:片岡 亀蔵
御霊御前:市村 萬次郎
藤原稀継:坂東 彌十郎

これら歌舞伎の役者が文句なしに良かった。もっとも良かったのはなんといっても三人の主演役者。染五郎、勘九郎、七之助。それぞれにニンにはまった役で素晴らしかった。各々に100点満点の150点をあげたい。何てカッコいいの。染五郎は悩みながらも次第に「成長」し、蝦夷の長に納まって行くさまが丁寧に演じられていた。勇猛かつ繊細なキャラづくりに成功していた。

勘九郎は頭のてっぺんからつま先まで英雄そのもの。それでいてその英雄っぽさを外すところを心得ている。これ、ツボですよ。かわいいんですよね。あの背の高い貴公子然とした人がずっこけると。

七之助は凄まじい勢いでうまくなっている。「遠慮気味」な(なよなよした)女形ではなく、きりっとした男っぽい女形。彼がこういう「路線」の上を走っているので、今の20代の若手女形はその後に続きやすい。色気はあるんだけど、清潔な色気。こんな女形を待っていたんですよね。

それと蛮甲役の亀蔵が良かった。義に殉じる高潔な英雄たち、阿弖流為と田村麻呂とに比してどこまでも「意地汚い」男。オノレが生きのびるためには、親友であれ仲間であれ平気で裏切る男。作劇法としては彼をもってくる必然があったのだろう。阿弖流為と田村麻呂のアンチテーゼとしての、そして陰の部分を表象する男が必要だった。英雄たちが鈴鹿と恋に落ちたのに対し、蛮甲にも愛する妻、熊子(!)がいた。恋愛も対になっているというわけ。これも中島かずきの得意とする作劇法だろう。

また脇を固めた藤原稀継役の彌十郎の健闘を讃えたい。古今東西の政治家に通じるマキャヴェリズム思想の化身のような人物を演じて、みごとだった。彼を支えた御霊御前を演じた萬次郎もあまりにもはまり役だった。この役、女優が演じたら失敗していただろう。歌舞伎の女形の底力。それと品格。この二人を歌舞伎の新潮流を謳った演目でよく見るが、歌舞伎を超えた人物は、彼らだからこそ演じられる。彼らだからこそサマになる。

役者とはあまり関係ないけど、思想的にさすがと思ったところが2点あった。一つは中島かずき自ら自画自賛している「海の彼方の眠れる獅子が攻めてくるときのために国を一つにまつめるんだ」というセリフ。彼がいうように、13年前に書かれたこのセリフ、今の状況を予見していたのかも。

そしてもう一点が天皇(すめらぎ)が実体のないものだったということ。阿弖流為が踏み込んだ玉座。実は単なる衣をかけた椅子だった!思わず「ロラン・バルトの『表徴の帝国』だ!」と叫んでいた。このあざとさ!ふつうの歌舞伎の書き手なら思いつきませんよ。さすがです。もう一つ付け加えるなら、為政者がはじき出した者たちが怨霊となって祟るという発想。それを鎮めるための儀式としての祭り。それが最後のねぶた風の大きなセットに表わされていた。

公式サイトよりの写真。

問題点がなかったわけではない。まずストーリー。新感線の舞台らしく、やたらとこみ入っている。いくつか話のストリップを組み合わせ、それを積み上げるパターン。ごちゃごちゃしているので、頭に入り辛い。このごちゃごちゃ感がいかにも新感線。2回観てやっと腑に落ちたところがいくつかあった。たしかにこのごちゃごちゃ感は悪くはない。そこに演劇のマグマ的パワーの源があるわけで、ごちゃごちゃ感をきれいに整理してしまうと、原初的なエネルギーが殺がれてしまう。でももう少し「新感線色」というか、新感線的カオスを減じて欲しかった。

次の問題点は舞台の使い方。役者の動き。やたらと走り回る。「大和と蝦夷との戦争が主として描かれているから」っていうんですが、もう少しなんとかなりませんか。これも新感線色をもっと消して欲しかった。

問題点の基本にあるのは、「歌舞伎の枠をどう保つか」ということだと思う。「歌舞伎一辺倒」、「歌舞伎信奉」をしろというわけではない。とはいえやはり何百年と続いてきたゆるぎない伝統がある。それから出てくる格がある。その伝統と格をどう維持するか。「新感線流」に纏められて欲しくないから。

今日もスタンディングオベーション。カーテンコールも4回。役者さんたち、そこは歌舞伎の人たち、ちょっと恥ずかしそうにしていた。とくに染五郎。いつものびやかな勘九郎は衒いなく。彼は22日のスタオべでの機転が素敵だった。劇中で勢い余って亀蔵の鬘を取ってしまう場面があるのだけど、このスタオべで自分の鬘を取って亀蔵の前に置きひれ伏すところ、かわいかった!あらためていい役者さんになられたと嬉しい。

いいですね。最高でした。