yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『蜘蛛絲梓弦(くものいとあずさのゆみはり)市川猿之助六変化相勤め申し候』@歌舞伎座7月23日昼の部

歌舞伎座7月公演、今日昼・夜と観た中でいちばん面白かった。驚いたのは猿之助主演のこの演目に海老蔵が出ていたこと。初めての経験。そんなことって、ありました?でも「やっぱり!」と思ったのは、猿之助の八面六臂の大活躍のあと、最後にちょろっと出てきた海老蔵がおいしいところを持って行ってしまったこと。観客もそれを期待しているからしょうがないかと思いつつも、「フェアじゃないでしょ!」と叫んでしまった。もちろん心の中で。お隣に座られた方も同感でいらっしゃった。でもさすが海老蔵なんですよね。納得しました。

以下に「歌舞伎美人」からの「配役」と「みどころ」を。

<配役>
童熨斗丸
薬売り彦作
番頭新造八重里
座頭亀市
傾城薄雲実は女郎蜘蛛の精 猿之助
源頼光 門之助
坂田金時 市川右近
渡辺綱 巳之助
碓井貞光 獅 童
平井保昌 海老蔵


<みどころ>
様々な役柄を踊り分ける、趣向をこらした変化舞踊
 物の怪に憑りつかれた源頼光は病にかかり、館で休んでいます。家臣の坂田金時と碓井貞光が宿直をして、館の警護をしていると、どこからともなく現れたのは童の熨斗丸。その様子に疑いをいだいた二人に、熨斗丸は蜘蛛の糸を繰り出し、忽然と姿を消します。さらに薬売り、番頭新造、座頭が現れて頼光の寝所を目指しますが、二人に遮られます。そこに頼光と傾城薄雲が共に現れて逢瀬を楽しみますが、この傾城の正体こそ実は葛城山に棲む女郎蜘蛛の精だったのです。
 源頼光主従の土蜘蛛退治を題材に、早替りの趣向を取り入れ、変化に富む舞踊劇をお楽しみください。

猿之助が自家薬篭中のものとしている舞踊劇。彼がいかに巧いかを魅せる仕様になっているのは当然といえば当然。でも今回物足らなさがあった。彼と張り合うだけの器量、力量がある役者が最後に出てきた海老蔵だけだったから。猿之助が主要なところをしっかり押さえているのはいつものことなんだけど、右近も獅童も遠慮気味にみえた。私の気のせい?こと舞踊に関しては猿之助の右に出るものはいないのだから、なにか別の形で彼と張り合って欲しかった。張り合うだけの「力」が「華」がないから?そうではないと思う。自己主張がほとんどなかった。猿之助の目指すものと齟齬をきたしてもいいから、自分のカラーを出してほしかった。それが舞台に活力を与えるのだと思う。

我田引水になるけど、やっぱり巳之助がだんとつに良かった。彼には「張り合う」気はなかっただろう。でもやっぱり上手い。だから存在感がいやでも出る。自身をかなり引いて出していてでもある。彼をもっと目立つ役にしていたら、違っていたかもしれない。

舞台は怖い。一発勝負。一回限り。からだを張り、なによりも心を張って行かないと、地味な背景に過ぎなくなる。猿之助の舞台では常にそういう経験をさせられる。いつもぎりぎりのところで勝負しているという緊張感が張りつめている。昨日観た「阿弖流為」と比べるとその感を強く持つ。「まちがったり、ずっこけたりしてもいいじゃない。それも楽しみましょうよ!」的精神とでもいうものが、もっとあってもいいんじゃないですか、猿之助さん。そういや、アドリブなんてものは彼の芝居にはなかったような。大衆演劇でそれが芝居の大きな要素の一つであると知ってから、「外す」ことも観客を参加させる大事なきっかけになると、思い始めている。日本の演劇の伝統でこれが最も大事なものだったんではないかと、思い始めている。故勘三郎が可能にしたかった最たる舞台が、そういう舞台だったんではないかと、思い始めている。