「矢の根」、「鳴神」、そしてこの「流星」が「江戸七人衆」が京都に持ちこんだ演目だった。それだけでも彼らの意気込みがよく分かる。特に成田屋十八番の演目を二つもぶつけるなんて、無謀にみえるかもしれない。でも今年1月の「浅草花形歌舞伎」で彼らの実力のほどをみてきたので、そう危惧はしていなかった。歌舞伎美人からの公演チラシが以下の写真。
伝統の重みがずっしりとかかった京都南座。「江戸七人衆」がそこに「討ちって来る」って感じだろうか。今年1月の「浅草歌舞伎」と違い、それなりの覚悟があったんじゃないかと、勝手に想像している。ただ知名度が今ひとつ。しかも京都の観劇人はかなり保守的。なんといっても年配者が圧倒的多数。かなりタイヘンかもしれないと思っていた。とはいえ、京都人はケッコウ「あたらしもんずき」。だから一度彼らを観れば、清新さと、熱意と、なによりも新しい趣向、革新的な試みに惚れ込んでくれるんじゃないか。そうあって欲しい。
昼公演の中では清元舞踊、「流星」が最も良かった。チラシ上部、肖像写真の左から三番目が流星に扮した巳之助氏。
以下、「歌舞伎美人」からの「配役」と「みどころ」。
<配役>
流星 坂東 巳之助
牽牛 中村 隼 人
織女 尾上 右 近<みどころ>
七夕の夜、牽牛と織女は年に一度、この夜にしか会うことができません。そこに流星が、雷夫婦が喧嘩を始めたと報告にやってきます。その夫婦喧嘩というのが、亭主雷が端唄の師匠の家に落ちて、端唄を聞き覚えて帰ってきてから端唄ばかり唄うのが原因だとか。女房雷はあきれて悪口を言う、亭主雷は怒って出て行けと言い、挙句の果てにつかみ合いの喧嘩になったと話します。話を聞かされた牽牛と織女は…。
人気の舞踊をお楽しみいただきます。
さすが巳之助。観ながらなんども唸った。筋書によると坂東流に伝わる舞踊らしい。その大和屋伝来の演目を仕切るに相応しい舞踊をみせてくれた。
隼人も右近も牽牛と織女の悲恋を現実化するに相応しい役者。二人とも品がよくて、凛としていてまるでお雛さまのようだった。隼人は錦之助の長男で、一昨年だったか国立劇場でのお父様との共演、「紅葉狩」で観たのが最初。最近では1月の『春調娘七種』(「浅草歌舞伎」)での曾我十郎がよかった。ちょっとフェミニンな感じがするところが十郎のニンに合っていた。
尾上右近は『天守物語』で亀姫を演じたのが印象的だった。その後いくつかの芝居で観てきたけど、安定した女形で安心して見ていられる。
舞台の始まりはこの二人で、それが当分続く。天上界の牽牛と織姫は鷹揚で品がなくてはならないが、この二人はそれをよく表していた。とくに右近の自信に満ちた態度は、この役を踊るのにぴったり。隼人も最初観た頃より、めきめき腕をあげて、踊りに表情が付くようになって来ている。
初々しい二人の舞踊を堪能したあと、巳之助の流星が満を持して飛び出して来る。そこからは完全に巳之助の世界というか宇宙。観客の目を彼の一挙手一投足に持って行く。振りをみていると、そこかしこにお父さまの三津五郎の影が。確かな手。なにを演っても品格がある。
彦星と織り姫のロマンスを雷の夫婦喧嘩という世俗的もめごとと対比させているところが、この作品のみどころ。天上界と俗世間という対比でもある。そこになんともいえない可笑し味が。このコミカルさを出すのに、巳之助ほど適任はないだろう。目の動き、頭の振り方、手と腕の動き、身体のちょっとした所作に可笑しさが醸し出される。上手い!と何度も呟いてしまった。
コミカルな内容を具象化するというのは三津五郎も上手かったけど、巳之助は率先してそれをやるという点で、これからの伸びしろが大きいに違いない。そう思わせる程の舞踊だった。夫と妻の間の焼きもちによる夫婦喧嘩、そこに仲裁に入る姑、そして子という四人の人物を踊り(演じ)分けて秀逸だった。役にのめり込んでしまうと、四人の差別化ができなくなる。そこには醒めた目が必要不可欠だけど、巳之助をみていると常にそういう目を感じる。見た目よりはるかに冷静で、しかも頭の良い人なんだろう。いいですね!
午後の部の『弁天娘女男白浪』では南郷力丸を演じる。『闇梅百物語』では傘一本足(!)を演じる。この傘一本足なんて、きっと彼のたっての希望を実現させた役なんじゃなかと想像している。10日に午後の部を観る予定だけど、ラッキーなことに一列目の花道寄りの席なので、彼のユーモアのセンスを目一杯堪能できそう。