坂部恵(1936-2009)さん、もう亡くなっておられた。『仮面の解釈学』を読んだのはずいぶん前。ところどころに面白いとおもう箇所はあったものの、よく分からずそのまま放置していた。非常に評価の高い著書で、その値打ちのほどはいわれなくても分かったものの、こちらの頭がそれについていっていなかった。多少読んでいた解釈学のポール・リクールや現象学のフッサール等とも違った難解さだった。
この『モデルニテ・バロック』は『仮面の解釈学』よりもはるかに「くだけた」内容で、とくに九鬼周造を分析した章、「日本のモデルニテ」が面白かった。目次をみた瞬間から、その近づき易さが分かる。色々なところに寄稿したものを集めて本にしたもので、読者を一般人に想定しているところからくる「親しみやすさ」だと思う。
これまた九鬼と浅からぬ縁のある岡倉天心とシェリングを対比した章も興味深かった。美学だけではなく、比較文学、比較文化論にもなっている。それも一級の。この本を上梓したのは、おそらく彼が自身の死を覚悟したからだろう。「哲学者」としてではなく、美に拘る一介の巷間人として、自分を曝け出したいという強い意志が働いたのではないか。
日本が出自であるという消し去れないアイデンティティと、長く西洋哲学に淫して来たという「宿命」との間で揺れ動く彼の心理が見えて、それがときとして痛々しい。その痛々しさがもっとも顕著にあらわれているのが、中江兆民の詩。「楚因の詩」一節の引用だろう。坂部はペルー大使館占拠の際、武装グループに加わっていた少年、その少年が死刑に処されたことをその一節に重ね合わせている。坂部は「なんの感慨もなく」そうしたというのだけど、それは哲学者としての仮面であって、実はやりきれない思いでいっぱいだっただろう。美とか崇高とかでは、あるいは「ロマン主義」、ヒロイズムでは割り切れない人の在り方。それは彼自身が「到達」した完結、あるいは「終わり」を示しているように思う。
これを書いた後にどうしても『仮面の解釈学』を読みたくなり、本棚を探しまわったのにナイ。ベージュ色の表紙まで目に浮かぶのに。仕方がないので、アマゾンで注文した。一冊だけ残っていた。良かった。アマゾンに載っているレビューで、1970年代にすでにデリダやドゥルーズにも坂部さんが言及しているという行があった。以前に読んだ折にはまったく気づかなかった。さすが坂部さんなんですね。でも彼らとは方向性が違っているように思う。もっとカントという「原点」に拘っているように思う。坂部さんはおそらくクリティカルにデリダを読んだのではないか。確認したい。