たまたま出くわした吉之助さんという方の「歌舞伎素人講釈」というブログの記事で三島由紀夫の『鹿鳴館』をジジェクで解釈している下りがあった。この方は武智鉄二を高く評価しておられて、同好の士のよしみを感じてしまった。歌舞伎解釈の「業界」では三島も武智も主流とはいえない、いわば異端である。だからこの方があえて「素人」というアイデンティティにこだわっておられるところ、むしろ強い心意気を感じた。実際の評論は分析方法も鋭く、玄人であることは一目瞭然であるのに、素人という姿勢を貫かれているところに美学を感じる。歌舞伎の研究同好会を主催もされているようである。
長い前置きなのだが、スラヴォイ・ジジェク(Slavoj Žižek,1949年3月21日 - )が歌舞伎通の口にのぼるとはちょっとした驚きだったし、このことがきっかけで現代を代表するキュレーターの松岡正剛氏がその「千夜千冊」の中でジジェクをどう料理しているのかを知りたくなった。
松岡正剛氏はジジェクの『幻想の感染』をとりあげていた。ただ、彼がジジェクに「編集者」的親近感を感じたのは『斜めからみる』が最初だったようで、次いで『仮想化しきれない残余』を読んだ上での『幻想の感染』批評だった。私はジジェクのものは英語のものもまじえてほとんど読んだけど、この『幻想の感染』だけは残念ながら未読である。
松岡氏がジジェクに認めるのはその分析の方法である。松岡氏も主催する編集者養成学校では「プラトンがヘーゲルを読んだらどう思うか、ニュートンがアインシュタインをどう見るか、三井高利が資生堂の商品にどんな価値を見出すか、ラシーヌがブレヒトの舞台をどう感じるかという方法によって、思想や芸術や商品を語る語り方があるにちがいないという提案」をしているという。ジジェクが採っている方法もまさにこれだというのだ。大いに納得できた。というのも、ジジェクはもちろんラカンの精神分析の方法を駆使して、『斜めからみる』だったらヒッチコックの作品を「解読」するのだが、それでもやっぱりなにか残余が残っていて、そこがまさにジジェクなのである。そこのところを松岡氏は次のようにいう。
次に『仮想化しきれない残余』という魅惑的なタイトルの本を読んだのだが、これはシェリングをヘーゲルで読むというのか、ヘーゲルをシェリングで読むというのか、やはりAの目盛をBの解読の隙間につかい、Bの目盛をAの言い換えがおよばない残余につかうという方法を駆使していて、またまたむずむずするほど手口が見えて、堪能させられた。
ジジェクを読んでいてその鮮やかな分析に目を奪われ眩惑されてしまうのだが、読み進むうちに「あれ?』と立ち止まらされることがある。それは、先ほどの分析ではもれてしまっていたところ(いくら誑かされても、読者がどこかで「?』と感じていること)を、ジジェク自らが再現し、「『?』なんだよね」と手の内をさらすやり方である。ここのところを松岡氏は「手口」と呼んでいる。何通りもまるで手品をつかうように手口が公開され、そしてその見事な分析はカッコにくくられてしまうのだ。スロベニア出身のジジェクらしく、イデオロギーという厄介な問題も俎上に上るのだが、それでもどこかはぐらさされている感は否めない。でもそのはぐらかしは、映画評のときほど軽やかではないのが、どこか彼自身の苦悩を反映しているのではと想像したりする。
こういう方法論はたしかに松岡氏のいうように「戯曲」的である。また遊戯を連想させる。でもポストモダンのデリダ信奉者と決定的にちがうのは、ラカンという怪物の理論に寄り添うところである。遊戯化できないものをラカン的な精神分析でなんとか意味付けようとするところに、政治、イデオロギーに翻弄されてきたスロベニア出身のジジェクの立場が見えるような気がする。こういう解釈はジジェクがもっとも嫌うかもしれないけど。
というわけで、しばらく離れてしまっていたジジェクを読もうと思っている。手始めに
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