去る10月28日に梅田芸術劇場の公演があったが、見逃したのでDVDを購入した。彩の国さいたま芸術劇場での初演が2009年3月。このDVDが収録しているロンドン公演が2010年5月。私の嫌いなバービカン劇場での公演だったようである。そもそも『ムサシ』を知ったのは先日藤原竜也と長谷川穂積の対談を見たのがきっかけである。番組には蜷川も登場していたが、常日頃彼の好評価にいささか疑問があったので梅田芸術劇場で観るのをためらってしまった。「劇団新感線」の苦い経験があるから。そもそも、チケット自体入手するのは困難だった。「なんぼのもんじゃい」という関西人的懐疑心も働いてしまった。
結論からいえば、無理をして行く程のこともなかったということ。とても凝った作品だとは思う。でもそれ以上でもそれ以下でもない。たしかにいわゆる小劇場系の芝居とは一線を画している。でも先日みた猿之助の『ヴェニスの商人』、あるいは村井国夫と三田和代の『秘密は歌う』といった現代劇にも及ばない。だからDVDでみるに十分だった。ただ、井上ひさし作品だけあって、使った役者には新劇俳優独特のインテリ臭さはなかった。普段から演劇論を闘わしている気取った新劇俳優にはうんざりなので、そんな俳優を起用しなかった点は評価できる。また「劇団新感線」よりははるかに「まともな」芝居だった。とはいえ、やっぱり蜷川にはどこかインテリ臭がつきまとっているんですよね。井上ひさしがめざしたのは徹底したエンターテインメント性だったと思う。先日観た野田秀樹の『野田版鼠小僧』が実現したような。その点では蜷川はやっぱり旧い演劇人の価値観の枠にいる人なんでしょうね。彼はそういう旧い演劇、その体質に挑んだ人だったけど、それを超えることは難しかった。蜷川シェイクスピア作品のDVDも入手したので、きちんとした評価はそれを見終わるまで待たなくてはならないのかもしれないけど。
以下、2013年彩の国さいたま芸術劇場公演の折の劇場サイトにあった情報。
あらすじ
慶長十七年(一六一二)陰暦四月十三日正午。 豊前国小倉沖の舟島。真昼の太陽が照り付けるなか、宮本武蔵と佐々木小次郎が、たがいにきびしく睨み合っている。小次郎は愛刀「物干し竿」を抜き放ち、武蔵は背に隠した木刀を深く構える。武蔵が不意に声をあげる。「この勝負、おぬしの負けと決まった」。約束の刻限から半日近くも待たされた小次郎の苛立ちは、すでに頂点に達していた。小次郎が動き、勝負は一撃で決まった。勝ったのは武蔵。検死役の藩医に「お手当を!」と叫び、疾風のごとく舟島を立ち去る武蔵。佐々木小次郎の「厳流」をとって、後に「厳流島の決闘」と呼ばれることになる世紀の大一番は、こうして一瞬のうちに終わり、そして……物語はここから始まる。
2009年3月11日付けの朝日新聞掲載の扇田昭彦氏の劇評がある。扇田氏にはニューヨークのコロンビア大学で開催された「三島由紀夫シンポジウム」で会ったことがある。ちょっとお話したけれど、生真面目そうな方だった。アメリカ人のアグレッシブさにいささか戸惑っておられるようだった。
井上ひさしの原作は傑作である。それだけは確か。ある意味、演出がどうであっても、劇作品として自立している。ちょうど三島の『サド侯爵夫人』がそうであるように。彼は演出をあまり信頼していなかったのではないだろうか。いくつか劇評を読んだが、どれも「憎しみの連鎖を断ち切る」というのがテーマだと勘違いしているようだった。そういうメッセージもないことはないが、それを一ひねりも二ひねりをしているのが、いかにも井上らしいのに。そんなチンプ、センパクなテーマはわゆる新劇の十八番でしょう。お題目を唱えるだけなら誰でも出来る。それこそが井上が提示してみせたテーマなんだから。
NYロンドン版のキャストは以下。
• 宮本武蔵:藤原竜也
• 佐々木小次郎:勝地涼
• 筆屋乙女:鈴木杏
• 沢庵宗彭:六平直政
• 柳生宗矩:吉田鋼太郎
• 木屋まい:白石加代子
• 平心:大石継太
• 忠助:塚本幸男
• 浅川甚兵衛:飯田邦博
• 浅川官兵衛:堀文明
• 只野有膳:井面猛志
主演の藤原竜也の良いところ、それはそのクセのなさ。どんな色にも染まっていないところというべきだろうか。演技というほどの演技にみえないところも良い。勝地涼もその点で共通していた。ヘンな新劇臭がなかった。沢庵の六平直政もアクがそれほど強くない。柳生宗矩の吉田鋼太郎もそのどこかとぼけた感じが「演劇命」という看板を掲げている新劇俳優とは違っていた。木屋まい役の白石加代子はそういう無味、無臭の俳優たちときわだったコントラストを成していた。でも以前の早稲田小劇場のときとほどの臭みは抑えられていたのではないか。筆屋乙女の鈴木杏があまりに「素直」すぎて、ちょっと浮いていたかも。手練の中に交じると、当然その未熟さが際立ってしまう。彼女と比べると、藤原竜也はそのクセのなさを逆に特徴として生かしているところ、かなりしたたか。このしたたかこそ、彼をここまでにしたのだろう。したたかであるということは、役と自身の間の距離を常に計っている、そういうことが出来るということ。それが自身と役との距離をなくすことを命題としている役者とは一線を画しているし、今後の役者としての成長の可能性をもっているということではないか。