yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

鈴木忠志著『越境する力』

一昨日、琵琶の稽古に京都まで出かけた帰りに西大谷に祖父の墓参りに行ったまではよかったのだが、帰りに気分が悪くなり、昨日は一日倒れてしまっていた。風邪がこじれたようで今もまだ熱っぽい。昨日は文楽の『心中宵庚申』をみる予定で切符まで買っていたのに、行けなかった。残念。8日までなので、なんとしても観に行くつもりである。今週末は法事で無理なので、今日か8日になってしまう。

つれあいが収集している演劇関連本の中でたまたま見つけたこの本、鈴木忠志著『越境する力』

越境する力―演劇論 (PARCO PICTURE BACKS)

越境する力―演劇論 (PARCO PICTURE BACKS)

が気になっていて、ぱらぱらとよんでいるのだが、今まで勝手に想像してきた「鈴木忠志」とは違っていた。鈴木といえば早稲田小劇場の創始者であり「俳優訓練法スズキ・メソッド」(音楽の「スズキ・メソッド」ではない)でも有名である。でも最近はあまりその名をきかなくなっているけど実際の活動は休止中なのだろうか。*1

先日兵庫県立芸術文化センターでノエル・カワードの『秘密は歌う』をみて以来、劇場空間と演技者との関係がずっと気になっていた。あの芝居もウェストエンドやブロードウェイのあれほど大きくはない劇場でみたらずいぶんと印象が変わるのではないか。ウェストエンドやらブロードウェイの芝居小屋は古色蒼然としたところが多くて、どこかけばけばしく、それでいてちょっとうらぶれているところが多かった。もちろん客席との距離もあの大劇場に比べればずっと近くて、「鑑賞している」というより「参加している」という感じがした。ノエル・カワード自身もそういう劇場を想定してあの芝居を書いたのではと思った。

この鈴木忠志の本の中心にあるのは演者とその演じる空間との関係である。彼が富山の利賀村に芝居小屋を建てた理由もここから分かる。彼は現代劇の演者が大劇場と小劇場とに自らの身体をどう合わせるかに苦労していることを問題にする。以下引用。

大劇場にいけばマイクがあるといったことにもみられるように、俳優のみならず多くの演劇人は、小劇場と大劇場との違いを可視的可聴的な量の問題と考え、処理しているといってよい。だから実際にそういう事態になると、せっかく小劇場では獲得していた身体の存在感を、大劇場で失ってしまうことが多い。そういうときの俳優は、大空間に棲み込み、”われ在れり”という実在感を各都市、劇場全体に隈なくエネルギーを放射するような身体と空間との関係に全エネルギーを集中するのではなく、ただひたすらに多くの観客に見せよう聴かせようと立ち向かいすぎるので、俳優の身体はそのためだけに存在する記号のようなものになってしまい、奥行きのある人間としての存在感を感じさせることができなくなってしまうのが通例である。(中略)身体の変容自体を手玉にとって遊ぶ俳優という人間にとっては、劇場の選択はもっとも本質的な問題といっていいのだが、こういうことに対して、現代劇はなにがしか方法をもっているわけではない。その点で、ひとつの確固とした解決を提出しているのが能という演劇であり、その証左が能舞台である。(イタリックスは私)

能舞台で演じる能役者には現代演劇の演者が苦労している空間との格闘は生じない。というのも、

能役者には、目が見えなくなっても舞台から落ちないというように、ある一つの固定的な空間があって、それが役者の体に棲みついているのです。ですから彼らは、大きさも形も違う現代演劇の空間に出ても、すぐ能舞台と同じような動きをすることができるのです。この場合、役者の体と空間とが密着しているわけです。体との関係がそのような状態にある空間を、私は聖なる空間といっているのです。(イタリックスは私)

能では演者がその空間に身体ごと「棲みついて」いて、それこそがいわば理想的な空間、彼のことばに拠るなら「聖なる空間」ということになるのだという。この「聖なる空間」は彼が再三この著書でも引用しているエリアーデを思わせるが、まさにそういう特別な空間を演技者が自らの身体で創出できるような場を、彼は切に求めたということだろう。

彼はまたそういう空間、を「体のふるさと」ともよぶ。「こどものころから慣れ親しんだ結果、役者が聖なる記憶として持ち、それを基準にするほどにまでしてしまった能舞台は、芸能の世界に冠たる一つの発明ともいえる演劇的な仕掛けだと私はおもいます。」といいきった彼はやがて利賀村の芝居小屋というかたちで現実化させる。

この舞台に彼が乗せたのは、なんとギリシャ悲劇の鈴木忠志版「王妃クリュタイメストラ』。写真つきの台本が載っているが、なんとも重い台詞の連続。これを演じるにはよほどのパワーがなくては無理だろうと思う。おそらく白石加代子さん以上に演じられる人もいないだろう。

写真で見る限り、聖なる空間というよりは血に塗り込められた長い時間を薄明かりの中に黒々と亡霊のように立ち上げる空間のようである。たしかに役者の身体がその場になまなましく「生きている」という感じは強烈にする。果たして観客はどう感じたのだろう。

*1:ネットで彼がSCOTという組織を立ち上げ活動していることを知った。失礼しました。SCOTのサイト:http://www1.tst.ne.jp/togapk/scotclub/sub6.html