yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

猿之助 in 『ヴェニスの商人』@兵庫県立芸術文化センター中ホール 10月12日昼の部

蜷川幸雄演出
オーメールキャストで、主要な配役は以下。
シャイロック  市川猿之助
ポーシャ    中村倫也
バッサーニオ  横田栄司
アントーニオ  高橋克実

以下、公演チラシ。

猿之助の独り舞台だった!あとの役者はすべて翳んでしまった。このシャイロックをみただけでも、しばらくはその余韻に浸っていれそうな、そんなすばらしい猿之助の舞台だった。いわゆる新劇畑の俳優、そして有名タレントたちが逆立ちしても到達できない芸の高みを魅せてくれた。猿之助さん、あなたは平成を代表する役者です。歌舞伎役者の実力を余すことなくみせてくれて、鬼気迫るものがあった!エロキューションが今年6月に歌舞伎座でみた吉右衛門の俊寛を彷彿とさせた。それでいながら、歌舞伎とか西洋演劇といったジャンルを突き抜けたすごみがあった。特にシャイロックがバッサーニオやアントーニオから侮辱を受けつつ、退散する場面(彼は客席をのろのろと打ちしおれて歩いて行った)のシャイロックの悲劇的な姿、その崇高さはどうだ!舞台にいならぶ他の人物がいかに卑小にみえたことか。キャラクターとしても役者本人としても。

このシャイロック、今後、猿之助の至芸の一つに数えられると思う。シャイロックを演じるにあたっての彼が抱負を語っている映像をリンクしておく。

『ヤマトタケル』だと、先代猿之助のやり方を無視して演じるのは不可能だろう。だからこそ、この歌舞伎を外れた舞台で、思う存分彼の意にかなったやり方で演じたかったに違いない。そういう思いが痛いほど伝わってきた。彼がシャイロックを演じた意味は大きいと思う。なによりも、日本の伝統芸能で育った役者の、他ジャンルの役者を凌駕する力のほどを広く一般の人にも知らしめしてくれた点で。この作品を初め他のシェイクスピア劇を舞台化するなら、ぜひともオール歌舞伎役者キャストでお願いしたい。それしか、シェイクスピア劇を日本で舞台に乗せる方法はないと確信した。

蜷川演出でしかも著名な俳優をそろえたということで、チケットは高かった。これは猿之助の所為ではないと思う。でもはっきりいって、猿之助しか観るのに値しなかった。もし猿之助と共演するのでなかったら、他の役者も多少は見せ場があったのかもしれない。でもこういう並外れた役者とならぶと、なんと貧相にみえることか。その点から、12500円は高い。

まあ、同情の余地もある。シェイクスピアをやるのは、まず日本の俳優には無理である。今まで、『ハムレット』やら『ロミオとジュリエット』やら新劇俳優のやるのをみてきたが、どれも観ているのが辛かった。原作のあの長い台詞、しかもあのイギリス独特のウィット、ジョーク、皮肉、サタイア、パロデイーといった、一言で言えば洒落の塊のような台詞を、そしてあの理屈っぽい台詞を、それらが「不自然な」日本語の訳文になったものを「自然に」しゃべるなんて、およそ不可能である。そこにかなり留意して訳した小田島雄志訳でも、原文のエッセンスを伝えきることは難しかっただろう(今回の訳者が小田島以上に成功しているとは思えないけど)。日本語に「訳した」形で台詞にするにはムリがあるのだ。ロンドンとストラットフォード=アポン=エイボンでシェイクスピア劇をみたが、台詞での違和感を感じたことがないのは、おそらく日本語にそのまま訳すこと自体が問題なんだろう。

でも、さすが猿之助。彼はその台詞を完璧に自家薬籠中のものにしていて、まったく違和感がなかった!歌舞伎の台詞廻しでしゃべったからである。だから他の俳優からは浮いていた。むしろ、相も変わらず「新劇調」でしゃべる他の俳優の足らなさが、白日のもとに曝される結果となっていた。蜷川は本気で演出したのだろうか。芝居冒頭でアントーニオとバッサーニオ、彼らの友人たちが出てきてしゃべり始めた段階で、もう帰ろうかと思った程だった。ほんとうに白けてしまった。

こういうのをありがたがる人たちって、どんな人たちなんだろう。歌舞伎のファンではなかったようなので、蜷川やら新劇のファンなのだろうか。もっと自分の国の演劇を観て欲しいと思った。大衆演劇のトップ劇団の方がはるかにすばらしい舞台をする。そういうのを観て欲しい。宝塚にも劇団新感線にもがっかりしたけど、新劇、その他の今の劇団との共通点があることに気づいた。身体が出来ていないこと。また、息づかいができていないこと。

実力のない俳優たちを演出するのは、そりゃ大変だろうけど、でもそこに挑戦してきたのが蜷川だと思っていたので、失望は大きい。

中ホールといえど、シェイクスピアをやるには大きすぎた。それは先日の大ホールでの『春琴』のときと同じである。こじんまりした舞台は採算が合わないのだろうか。