先週土曜日、マグノリアホールでのサロンコンサートの後、隣接する美術館で「歌舞伎看板展」を見た。非常に興味深かった。これほどのコレクションを所蔵しているのは、さすが逸翁美術館。今日の公演もきっとおもしろい話が聴けると確信して出かけた。期待通りだった。
講師の神山さんは現在、明治大学の教授。その前は国立劇場の芸能部におられたという。「やっぱり!」と膝を打った。この手の話は、現場に携わった人しか語れないだろうと推測していたから。
講演内容のアウトラインは以下。
1.「散切もの」という名称と「髪形」の関係
髪形と社会規範
髪形の出世意識2.風俗としての小道具
演劇と小説との違い
「風俗」の重要性
「時計」 豊かさと教訓
「鉄道」 スピードと正確さ、そして時代に「乗り遅れる」
「商品」としての刀
3.「故郷」と「立身出世」
「志願—出郷—学問—挫折—帰郷」の構図
徳川時代から続く歌舞伎伝統の中で、「散切物」の芝居がどういう位置をしめているのか、いかなる意義があるのかという講演内容、目が開かれた気がした。
最後の結論、現代の新劇等の演劇、映画などはまさに江戸から明治への過渡期に一種「あだ花」として出現した「散切物」から派生してきた産物であるという結論、非常に面白かったし、首肯できた。江戸歌舞伎と現代演劇との断絶。この二つの形態とその内容とのギャップが腑に落ちなかったのが、この講演によって少しは晴れた気がした。
またこの散切物で今舞台に上がったのはたった一つ(『島鵆月白浪』)だったというのも、参考になった。これはビデオ映像が流れた。現菊五郎が主人公の島蔵を演じていた。1983年、」国立大劇場での公演。神山さんも加わった公演だったのだろう。今日改めて歌舞伎絵看板の展示品リストをもらったのだけど、これほど多くの作品が埋もれてしまっているのは、実に残念。それこそ国立劇場で復活狂言として上演してもらえないものだろうか。江戸から明治という過渡期の芝居の実態がわかるという歴史的意味だけでなく、文学的にもいかなる画期的な変化があったのかが、確認できるはずだから。