yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

大衆演劇(旅芝居)と散切物:歌舞伎から遠くはなれて?

先日の「明治の歌舞伎と散切物の風俗」の講演で、散切物芝居のテーマの一つが「志願—出郷—学問—挫折—帰郷」にあると講師の神山さんが指摘されていた。これは明治になってから出てきたものだという。その点で、散切物は歌舞伎と新劇との間にあるのだとか。

学問のために故郷を捨てたものの、やがて立身出世の夢破れて挫折、虚しさを抱えて故郷に帰るなんていうのは、江戸時代にはなかったテーマだそう。「挫折がなくてはドラマにならないでしょ」と、神山さんの弁。確かに。こういう発想自体が「近代」なんだと、今の今まで気づかなかったのが迂闊。自分が骨の髄まで近代的思考法に染まっていたのだと、ヘンに納得したりもした。中・高をアメリカ型教育をする私学で過ごしたのだけど、そこは個人主義が当たり前という環境で、日本特有の集団意識が稀薄。だからというべきか、その後出会った英米文学で、出てくるテーマの一つである、「個がその確立のため闘う」という「イニシエーションのドラマ」なんてのはすんなりと受け入れられた。

歌舞伎も、この近代的自我意識を通して観てきたのかもしれない。当時の常態だった環境とそこに生きる人間と自身の間のギャップを意識しないままに。もちろん現代の人間が観るのだから、その環境を逃れ得ないのは当然。ただここにリザーブ(留保)を付けるべきだったのかもしれないと、今思う。

歌舞伎のベースにはこの「前近代」がある。それを理解した上でないと、批評すべきでないのかもしれない。とはいうものの、今その場に生きているわけではないし、演じる役者の意識、身体ともに私と同じく現代人のもの。むしろ、「ギャップを感じつつ、観賞する」というのが今の私に可能な精一杯の観賞法。となると、平成の舞台で演じられている歌舞伎は「幾重にもカッコに括ってみる」ということになるのかも。それはそれで、オモシロイし楽しい。

大衆演劇の場合、前近代から近代への過渡期のテーマが多い。その点では「散切物」と共通した性向だといえるかも。ただ芝居の背景のほとんどは江戸時代。またそこで披瀝される価値観も前近代的。ただ、江戸のものではない。この点で、歌舞伎とは一線を画している。そこで提示される価値観は、散切物よりも前近代に近い。もっというならば、「個人主義」意識が薄い。私のような個人主義に凝り固まった人間が、なぜ旅芝居というか大衆演劇に惹かれるのかという、その理由がここにあるように思う。たぶん「散切物」には、歌舞伎に、あるいは旅芝居に心動かされた(動揺させられた)ほどにはときめかないような気がする。