yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

中村勘三郎丈の訃報

残念である。

天才といわれていたけれど、努力の人だったのだと思う。まさに「芸の鬼」だったに違いない。でもいわゆる優等生型ではなく、あくまでも芸人として歌舞伎本来のあり方をとことん追求した人だった。舞台に出てくるとその愛嬌で観客を即座に虜にした。それになによりもその色気。愛嬌と色気が組めば役者としては勝ったも同然である。でもその上に精進が伴ったから、あれほど人気があったのだろう。歌舞伎が床の間に飾られるだけのものになってしまうのを嫌い、江戸歌舞伎の源流に戻り、その活気、あえていうなら往時の「猥雑さ」を取り戻そうとしたのだろう。市川猿之助(現猿翁)の新しい歌舞伎を目指しての挑戦と同じ方向性をもった挑戦をしてきた人だった。

茶目っ気のあるわんぱく小僧、神出鬼没、文化人類学でいうところの「トリックスター」そのものだった。でもその役目は生身の人間が担うとなると、かなり重かっただろう。古いしきたりが残る歌舞伎界。いくら中村屋として歌舞伎最古の家柄とはいえ、比較的早くに父を亡くしているから、その中で孤軍奮闘するのは並大抵のパワーではすまなかったに違いない。その点でも猿翁と重なる。

彼の舞台でいちばん印象に残っているのはなんと言っても三島歌舞伎、玉三郎と組んだ『鰯売恋曳網』である。当時まだ勘九郎だった。「勘三郎」というとどうしてもお父様の方を思い浮かべてしまう(といっても実際の舞台は観たことはないのだが)。このときのコミカルな演技はだれも真似できないものだった。三島歌舞伎の遊びの真骨頂のばかばかしさ!彼の演技の自然さ、巧みさ。そしてなによりもお姫さま(玉三郎)がぞっこんになるのも「宜なるかな」と思わせる色気。あれほどの色気を出せる役者はいないだろう。玉三郎も勘九郎相手だとしゃちこばらず、鎧を脱いで自然体で演じていたようにみえた。まさに阿吽の呼吸。玉三郎が彼の死をどれほど悼んでいることか。これほど息のあった相方はいなかっただろうから。

また彼ほど女形と立ち役との変わり目を無理なく演じれる人もいないだろう。そのあたりは現坂田藤十郎と共通していた。女形として出てきても、その愛嬌とかわいらしさで際立っていた。女形の踊りでは六代目菊五郎の孫という系譜に恥じない舞踊をみせてくれた。とくに『娘道成寺』と『鏡獅子』。今でも目に浮かぶ。多くの役者のをみてきたけれど、なんといっても勘九郎のこの二つは私のなかでは一番である。

ただ、松竹座でのニューヨーク凱旋公演の『夏祭浪花鑑』(2004)はいけなかった。コクーン歌舞伎の流れで、演出も串田和美だったのだが、なにかいけなかった。上滑りしていて、新しい演出そのものに、歌舞伎が呑み込まれてしまった感じがした。歌舞伎が歌舞伎としての存在感を主張できていなかった。それ以来、彼を観る機会は減ってしまった。そしてここ二年ほどの間、メディアに出てくる彼のパワーがダウンしているような印象を受けた。もちろんダウンしていても、普通の役者の何倍もの力強さをみせることができたのだろうけど。でも以前の破天荒さから比べると、どこか翳りが出てきたような気がした。

息子たち二人は父のような天才肌ではない。だからこそ、役者としての修行もより励まなくてはならないだろう。教養も(もちろん役者としての)身に付ける必要があるだろう。かなり大変だろうけど、謙虚に精進して欲しい。そしていつか玉三郎相手の『鰯売』を観たい。