yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

大学院時代の友人来日

7月8日(日)にペンシルバニア大学院時代の友人、Eliが神戸にやってきた。6月半ばに関西に来て、京都、大阪と滞在、その間に広島等をめぐって、最終地が神戸。彼はずっと前からfacebookで私にコンタクトをとったつもりだったのだけれど、あこぎなfacebookにうんざりしていて、最近はまったく開かなかったので、気づくのが遅れて、会えたのも彼の離日前日だった。台湾にいる共通の友人からの、「彼が台湾、中国で教えたあと、アメリカに帰国した」というメールで読んだのがもう2年近く前なので、最近の消息はまったく知らなかった。これもなんだか不思議。というのも私たちは週末ともなれば一緒に遊んだ(英語では “hang around”という)仲間なのだった。5人ほどのグループだったけれど、それも今では散り散りばらばらである。

もっと早ければいろいろ案内もできだのだけれど、私も8月第一週まで授業なので、もっと早くといっても無理だっただろうけど。コロラド大学で今は中国文化、歴史と、それに!日本文化史まで教えているというので、ひっくりかえってしまった。ペン大ではおそらく「源氏物語」のクラス(それも学部生用の)をとっただけではないだろうか、日本関連科目を勉強したのは。ことほど左様にアメリカではなんでも教えさせられるし、臨機応変に教えなくてはならないのだ。今回の日本訪問はその「研究」もかねてのことらしく、勤務校からお金をもらっていた。でも今の職はテンポラリーで2年で終わるので、日本で大学教員の口に応募してみるとのことだった。ICU、それに上智大で専任の口を募集しているとのことだった。二人がまだ院生のころ、上智大が教員募集をしていたことがあり、応募をすすめたのだけれど、そのときにはまったく興味を示していなかったのに。なんという変わりよう。今回の旅で彼が一番気にいった日本はまちがいなくその食べ物だったと思う。とにかく食いしん坊で、フィラデルフィアのみならずアメリカ主要都市のチャイナタウンでどのレストランがおいしいかを聞けば、即座に答えてくれたから。もともとニューヨークのお隣りのニュージャージの出身で、ユダヤ系だからグルメの素養ありではあるけれど。

最後に会ったのが彼がPh.D.を「道教」でとった2005年以来なので、7年ぶりということになる。きっと変っただろうとおもったけれど、実際はあまり変わっていなかったのでホッとした。たしかに少し体重は増えたようだったけど。で昼ご飯を一緒し、彼の大好きだろうと想像したケーキを食べるべく神戸のケーキ激戦区に出たものの、日曜の昼下がりということで、どのケーキショップ兼カフェも満員御礼の10組待ちで、なんとか1軒で席を確保できたものの、落ち着かないこと夥しかった。

そのあとお待ちかね(?)の「劇団花吹雪」さんのショーへと引っぱって行った。歌舞伎やら文楽はダメでも、こういうショーならきっと喜ぶと思ったから。その通りだった。ちょうど喜劇、『女天学堂』で、内容はほとんど分らなかっただろうけれど、ジェスチャーである程度は想像できるとのたもうていた。もっとも彼は日本語を2年程度はペン大でとっているのだ。使うことがなかったのでもう忘れたというのだけれど。「きっと槙島先生(彼の日本語の先生)がなげいておられるよ」と言ってしまった。ショーはもちろん大喜び。大いに楽しんだようだった。というのも持って来たiPadでなんとか写真を撮ろうとしていたくらいだから。

一度、例の仲間たちと一緒にプリンストン大学で行われた「能と太鼓の夕べ」なるものに出かけたことがある。日本語の先生の旦那さまがプリンストンの教授で、その縁で私たちに声をかけてくれたのである。往きはペン大から彼女の車で(彼女はプリンストンからフィラデルフィアまで毎日通勤していた)行ったので問題なかったのだが、帰りはプリンストンの駅までしか送ってもらえなかったので、電車で帰ることになっていた。それで最後の太鼓ショーの途中で私が出ようと主張したのにもかかわらず、Eliとサンクトペテルスブルグ大学から在外研究できていたイリーナが「太鼓ショーをもっとみていたい」といったため、出るのが大幅に遅くなり、そのため最終の普通列車を1時間以上も駅で待つ羽目になった。うんざりしていた私は、すぐに来た特急に乗ろうと主張。それで大分揉めた。太鼓ショーのどこがそんなに彼らの気にいったのかがわからないのだが、あのようなショーが好きだとういうなら、大衆演劇のショーをかならずや気にいるだろうと推測できた。「あなたとは趣味が合わないことは分っているけど」と言ったら、にまっと笑って、(そこだけ)日本語で「私もそう思います」と返事が返ってきた。で、イリーナたちと一緒に受けていたメイヤー先生の授業(敦煌やらミイラやら多彩だった)の思い出話に花が咲き、とても楽しかった。

一方で、二度とあの時間は返ってこないのだと思うと、なんともいえない気持ちになった。まさに、「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず」ではある。ぐりぐりと身体に食い込む後悔を覚えた。一体、自分は何をしているのだろう。英語を教えているという私にEliはすこぶる同情してくれたのだけれど、自分の今の状態を決してうれしく思っているわけではない私にはそれもこたえた。自分の専門を教えられないというのは本当に残念である。