yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『アマテラス』坂東玉三郎×鼓童@大阪松竹座5月22日夜の部

以下、「歌舞伎美人」から。

玉三郎 ☓ 鼓童!!
光と音が共鳴する時、新たな<神話>が誕生する―


歌舞伎界当代の立女方である人間国宝 坂東玉三郎と、世界から高い評価を受ける太鼓芸能集団 鼓童。
両者の初共演作となった『アマテラス』は、2006年に東京と京都南座で連続公演を行い、翌年に歌舞伎座で公演、いずれも大好評を博した。
2013年には新たに元宝塚歌劇団男役スター愛音羽麗を迎え、東京と福岡と京都南座で再演。
日本神話の古事記を題材にとったこの音楽舞踊劇は、まさに躍動と美の饗宴。 情景や心理描写を表現する鼓童の勇壮な演奏と、感情の内奥を舞う玉三郎による優美な舞踊が見事に溶け合い、観る者の魂を大きく揺さぶった。
破壊と創造、そして調和へ――壮大なる神話が大阪松竹座で幕を開ける‼ 



【あらすじ】
太陽神アマテラスが治める高天の原に、悲しみにくれ荒れ狂うスサノオが現れる。己の慈愛、慈悲をもってもその荒ぶる魂を鎮めることがかなわないと悟ったアマテラスは、嘆きのあまり天の岩屋戸に姿を隠してしまう。全ての光は失われ、世界は闇に包まれる。八百万の神々が集まり、岩屋戸の前で祈りの宴を始める。囃し、謡い、舞い踊る神々。やがてアメノウズメも加わり、神々の祈りがひとつになるとき



【スタッフ・キャスト】
坂東玉三郎
鼓童
<元OSK日本歌劇団>森野木乃香 珂逢こころ 鈴峯ゆい 実桜くらら
<特別出演:元宝塚歌劇団男役スター>愛音羽麗

今日26日が千秋楽。記事を書くのが千秋楽の日で良かった。というのも、かなりがっかりしたから。玉三郎が鼓童とコラボしてもう何年になるんだろう。彼が佐渡へわたり、鼓童のもとに泊まり込んで稽古をつけている写真を見たことがある。彼らの信頼関係がよくわかる、ほんわかした良い雰囲気の写真だった。だから、かなり期待して観に行った。今思えば、私は一体何を期待していたのだろうか。玉三郎の舞踊が鼓童の太鼓演奏によってより美しく、引立つことをだろうか。それとも鼓童の太鼓演奏がいかにアーティスティックに優れていて、それが玉三郎の参加により、一層ひきたつことをか。違うような気がする。恐らく、両者のコラボにより、なにか今までにない新しいものが創出される場に立ち会いたかったんだと思う。以前に熊本八千代座で、玉三郎が地元の人と一緒によへほ節に合わせた「千人灯籠踊」という鄙びた踊りを踊り、そこに自身のきわめて実験的な舞踊劇、『春夏秋冬』を組み合わせたのを観た。このギャップの甚だしい組み合わせに、歌舞伎舞踊を観るときとはちがった、もっと原初的な(primordial)何か新しい感興をかき立てられた。そこには玉三郎のこの古い芝居小屋への強い思いと、それを守る人たちへの愛のほとばしりのようなものが感じられた。それと同質の体験をを再体験することを期待していたのだと思う。

原初的なエネルギーに満ち満ちた太鼓演奏と玉三郎のソフィスティケイトされた舞踊の組み合わせが生み出す新しい場の創出を、革新的舞台の創出を、この鼓童とのコラボに期待していたんだろう。私が立ち会ったのは残念ながら、これではなかった。冷静で、自身に厳しい玉三郎のことである。それをいちばんよく分かっていたのは彼だったのではなかったか。

玉三郎単独の踊り、あるいは鼓童のみの演奏だったらまだしも、コラボはなにか訳の分からない、中途半端なものしか生み出せていなかった。舞踊ではない、太鼓演奏でもない、舞踏でもないものを。どちらかというと太鼓を使ったダンスといったもの。ショウに近いかも。芸術度は高くない。玉三郎の舞踊はどちらかというと刺身のツマ的な役割しか果たしていなかった。いちばんまずかったのは、もっと優れた太鼓演奏を、日本各所のローカルな太鼓集団がしていること。そういうところで、もっともっと原初的エネルギーの迸りを目撃することができるだろう。見る者になにか不穏なものを掻き立てるそういうエネルギーである。大衆演劇のいくつかの劇団で太鼓演奏をみてきたが、その方がずっとそういう体験をさせられた。私はあまり太鼓演奏が好きではないけど、それでも、太鼓の音に自身の古層を掘り起こされるような気がして、「すごい!」と思ってしまう。だからその場にいるときは、ひたすら「観念」して見ている。

鼓童の演奏とそれについた踊り様のものには、そんな不穏さはまったくなかった。だから「ショウ」。それ以上ではない。パフォーマンスのレベルだと、先日見たWASABEATSの舞台の方がはるかに良かった。こちらは徹底してダンス、それも先鋭性を追求したもの。観客もそのレベルの高さに自身を共鳴させることが期待されている。会場との一体感はそういうところから生まれていた。原初的なものと洗練度とが融合していた。私がこの玉三郎と鼓童とのコラボに期待していたのも、そういうものだったような気がする。

玉三郎の舞踊はそれのみで自立しているのだから、それだけで良かったのでは。強いて太鼓演奏を入れるのであれば、ずっと後景にして、あくまでも玉三郎の舞踊を引き立てるものに終始させること。さらに、元宝塚の男役だという愛音羽麗さんのダンスは不要だったのでは。アメノウズメは『古事記』のこの箇所でもっとも重要な役目を負っている。卑猥さとそれがかもしだすオカシミとを上手く出さなくてはならない。加えて「神さま」の崇高さを持っていなくてはならない。難しい役どころ。彼女の踊りで、全体が薄っぺらい舞台になってしまっていた。卑猥さもオカシミもなかった。「宝塚」はどこまでいっても「宝塚」なんだろうと認識させられた。「Once is enough」という感想。

そういえば鼓童自体が「タカラズカ」。あの衣裳もいただけない。あれ、一体なにを目指していたの?衣裳のみならず、スサノオを始めとする登場人物にまったく深み、奥行きが見られない。太鼓、笛演奏とそれに付いた踊りででも、キャラクター作りはできたはず。だから刺身のツマ。一緒に行った友人が「これじゃ、15000円の値打ちはないわね」と言ったけど、同感。でもなぜかこの日の観客はスタンディングオベーションだった。見回すと中高年女性が圧倒的。玉三郎がアイコンだからかもしれない。人間国宝の玉三郎に鼓童ということで、なにか「高尚な体験」をしたと満足だったのかもしれない。