とても粋な舞台だった。パリ・オペラ座のエトワールだったルグリが舞台監督を務めただけあって、ルグリの面目躍如たるものがあった。音楽はヨハン・シュトラウスのものでも、舞台自体はまるでフランスだった。もちろん、フランスそのものではなく、ウィーン的洒脱さで色づけされてはいたけれど。
ウィーンフィルのニューイヤーコンサートで初めてルグリの名を耳にした。ウィーンフィルのシュトラウスの演奏に合わせてのルグリ演出によるバレエ、それもクリムトの「接吻」をバックにしての官能的なデュオを初めて見て、「なんと実験的!」と感動したのが、つい4ヶ月前のことである。そのときはルグリ本人の登場がなかったので、今回初めて実物をみたことになる。「こうもり」では主要人物の一人、ウルリックを踊っていた。なんと!主役の二人を完全に喰ってしまっていた!
この『こうもり』の筋自体がとてもオシャレである。というものの、そこはパリではなくウィーン、話は官能の海の中に沈む一歩手前で踏み止まっている。倦怠期の若い夫婦が主人公である。夫が夜ごと(こうもりのように羽が生えて)歓楽の巷、グラン・カフェへ繰り出しているのを知った妻が、自らも官能的な女性に「変身」してその場に乗り込み、夫に気づかれないまま彼を誘惑するのに成功。夫にしっぺ返しをするのだが、結局は夫を「改心」させ、彼の関心を取り戻すという筋書である。
「NBS 日本舞台芸術振興会 ウィーン・国立バレエ団:「こうもり」」のサイトからいくつかの写真をお借りしておく。
主役のベラをマリヤ・ヤコヴレワ、ヨハンをロマン・ラツィック、そして彼らの友人でベラに助言する(そして誘惑する)ウルリックをルグリという配役だった。グラン・カフェのウェイトレス、そしてそこに集う上流階級の女性の中に日本人踊り手が2人いた。また、カフェでの道化役を日本人ダンサー、木本全優が踊っていた。オケは日本センチュリー交響楽団、指揮はベーター・エリルンスト・ラッセン。ベラとヨハンのカップルの子供たちを日本のバレエ団の子供たちがつとめていた。
ヨーロッパの上流階級の家庭生活というのは、それこそ小説では読んだことがあるし、またお芝居でもみたことがあるけれど、日常を暮らしている世界とはあまりにも隔絶しているので、もうひとつピンと来なかった。映画ではヴィスコンティ作品のように家庭生活から過激にはみ出したものしかみたことがないし、もっと普通のものだとアメリカ映画の古いものでそれらしいものはあったけど、それらは『こうもり』の世界とはかなり違ったものだった。この作品に描かれている「家庭」はある意味衝撃的だった。私が今までに出くわしたヨーロッパ文藝作品中ではトルストイの『アンナ・カレーニナ』に出てくるものちいちばん近いかも。そういえば、「すべての幸福な家庭は互いに似ている。不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。」という名文句があったのは『アンナ・カレーニナ』冒頭だったっんですよね。日本の家庭とは質のまったく異なる「重さ」があると同時に、家族構成員同士の関係は日本のそれよりもずっと「軽い」というか希薄である。日本特有のウェットさはほとんど感じられない。それが「オシャレ」な感じがする所以だろう。
その「軽さ」がもとのシュトラウスの意図した『こうもり』にあったのかどうかは、分からない。でも少なくとも演出のルグリは軽さを逆手にとり、オシャレな表層の裏にある人間の業のようなものを引き出そうとしているようだった。それはもとのプティの演出をさらに踏み込んだ解釈だったのではないだろうか。ウィーンが舞台なのに、まるでパリの粋が横溢しているのは、プティのもとの演出がそうなっているからだろう。でもそこにルグリのウルリックが加わると、化学反応が起きて、その洒落っ気になんともいえないペーソスが醸し出される。「おかしくてやがて哀しき」といった趣に変貌してしまう。ここのところが、ルグリ演出の秀逸さだろう。
夫婦二人が主人公のはずなのに、夫婦の「友人」のウルリックの方が魅力的にみえてしまうのは、ルグリのすごさだろう。もっとも、トリックスターが主役を喰って得をするということはあったかもしれないけど。
レニングラード国立バレエ(ミハイロフスキー劇場バレエ団)やボリショイを見たあとでは、このバレエ団がまだまだとみえてしまうのはちょっと残念だった。特に完成度という点ではまだ途上なのだと思う。それだけまだのびしろがあるということで、ルグリの力量が発揮できる余地があるということだろう。ウィーンという土地に根ざしたバレエ団にしかできないことができるようになれば、世界でもトップクラスのバレエ団になるにちがいない。