思いつくままに以下に並べてみた。
1.当時の制度、機構がこの物語にどう描かれているのかの分析が正確。どのような歴史の専門書よりもはるかに深く洞察している。それによって、『源氏』を「物語」、あるいは「説話」としてではなく、「近代小説」に通低する硬質な構造をもったもの、また確かな価値観に則ったものとしての意味付けが可能となった。吉本の「源氏論」は文藝評論というより、文明評論の域に入っている。ただ、それでいながら、文藝批評としての「文学」であり続けている点は、もっとも吉本隆明の面目躍如たるところである。
2.「天皇」の特殊性、それがもつ独特の意味をきちんと位置づけている点。天皇の「神権政治」が指摘されているが、つまり、天皇が特殊な役割「神」を担っていたことへの言及がなされているが、これは私がアメリカの大学院の歴史のクラスで初めて知ったことだった。日本での「歴史」の授業では聴いたことがない。天皇は上皇になると同時に「神」ではなくなる(つまり、「神権の行使ができなくなる)なんていうこと、日本の一般向けの歴史書、たとえば日本歴史全集などでそういう解説に遭遇したことはない。
3.謙虚さ
日本古典を深く読み込む その謙虚さと努力。バックには膨大な資料——例としては『栄花物語』、『大鏡』、『紫式部日記』——等を読破したことが窺える。
4.紫式部の強いペシミズム、厭世観をどの研究にも謳っていなかったほど明瞭に立証した点。合わせて『源氏』を書き進むうちの作者、紫式部の「成長」を鮮やかに示している。作者自身のペシミズムは宇治十帖の薫に同化した形で表出していると推察している点が優れている。そこに看て取れるのは吉本の式部への共振に他ならない。
彼の筆が冴えるのは、源氏物語の前半の光源氏の明るさと対比される後半の末法的暗さ、花やぎのなさを明示した記述である。あれほどまばゆかった光の君も輝きを失ってしまっている。とくに、女三の宮の降嫁をめぐる紫の上の病気と死があの初々しい少女の若紫の場面と対照されることで、いかに世界が変貌してしまったかが、鮮やかに浮かび上がらせられている。ちょっとした浮気心が紫の上を傷つけ、二人の関係を修復不可能にしてしまうという、光源氏といえども無縁ではなかった、人間の弱さ、そして世の無常性が立ち上げられている。吉本はここに作者紫式部の変化(成長)をみている。
さきほどの薫と紫式部との共振に言及したが、ここには終生「在野」でありつづけた吉本自身の、受領階級出身で生涯最高のグループ内には入り得なかった紫式部との共振も窺える。おなじ思想家でも、例の「ニューアカ」との違いが見てとれるような気がする。