yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

中村雀右衛門丈を悼む

中村雀右衛門がこの2月に亡くなった。享年91歳。六世歌右衛門亡き後、歌舞伎界の女方最重鎮として後輩の指導はもちろんのこと、実際の舞台にも立っていた。私は1992年からアメリカの大学院に入った1997年までの間、毎月(東京まで出かけて)歌舞伎座、国立劇場で、はたまた京都南座、大阪中座で「親の仇のように」歌舞伎を観まくったが、その間に何本か彼の「代表作」といわれる作品をみた。

私の印象に残っているのは『籠釣瓶』の八ッ橋と『鏡山』(1995年?於南座)の尾上役である。いずれも遠目だったので(?)、十分に健気な美しい女性として映った。というのはちょっと失礼で、仕草がきりっとしていて、どこか醒めた女性という印象が残っている。特に感服したのは尾上で、岩藤から折檻をうける場面は忍従の中にどこか冷静な様子を窺わせるように演じていた。お初役はたしか芝翫で、世話好きで女主人思いの若い女中を活気溢れる愛嬌で演じていた。そういえば芝翫も去年すでに鬼籍に入っている。

このとき岩藤を演じたのが「立ち専門」の吉右衛門で、そのアグレッシブな演技に、芝居中笑う場面ではなかったのにもかかわらず何度も笑ってしまった(これで吉右衛門のファンになり、続けて2度観てしまった)。例の「草履打ち」の場面でのことである。仁王立ちになり、野太い声で攻めまくる大柄な吉右衛門の折檻を、座ったままじーっと耐え抜いていた雀右衛門の姿が目に焼きついている。

尾上はいわずと知れた六世歌右衛門の持ち役だったのだが、彼が舞台に出られなくなった後を引き継いだのだろう。歌右衛門の舞台をほとんど観ていないので比較できないのだが、他の女形と比べると、雀右衛門の舞台は情を誇張して表現するのを極力排したもの、心理を表に出すのを極力排した演じ方だった。知的な匂いのする女形だった。これはやはり彼の映画俳優としてのキャリアが反映していたのではないだろうか。映画ではアップが可能なので、全身を使って大仰に感情を表すことはない。心理の繊細、微妙な襞は表情、目の動き、あるいはさりげない仕草などで表現される。それは5年にもおよぶ映画体験が身体に染み付いていたからだろうし、加えて映画の手法をあえて持ち込むことで、それまで歌舞伎にはなかった新しい演技・演出法を示したかったのではないだろうか。旧来のやり方に面と向かって立ち向かい打ち壊すのではなく、さりげなく新しい方法を示してみせるというのは、この賢く、また新しい物好きで挑戦好きだった(と思われる)役者のやり方としてはいかにも相応しい。

日経連載の「私の履歴書」中で最も印象的だったのが、彼が歌舞伎に復帰後、身を寄せた七代目幸四郎に勧められ女形役者に「転身」したときの幸四郎のコトバだった。以下である。

ところで、そのとき幸四郎おじさんが私の決心を確かめるようにして言われた言葉をいまだに忘れることができません。

 「でも、おまえ、今からだと、六十にならなければ使い物にはならないよ。それでもやるか」

 おじさんは二十六の私にそう言ったのです。気が遠くなるようなお話です。しかし、私は「やります」と言ってしまったのですから、迷うわけにはいきませんでした。
<中略>
 今になって振り返って思うのですが、「六十にならなければ使い物にはならないよ」と言った幸四郎おじさんの言葉は、果たして現実のものとなりました。六十になったころ、私はようやく自分で「女形として何とかなってきたかな」と思ったものです。

謙虚な、そして常に上を志向しつづけた彼の人となりが伝わってくる。

雀右衛門の「私の履歴書」は日経朝刊に1994年に連載されたもので、毎日楽しみに読んだものである。今は「雀右衛門サイト」なるものがあって、この「履歴書」はそこにリンクされている。終戦当時から復興期の歌舞伎界の様子、中村雀右衛門がこの名跡を襲名した経緯も分り、興味深い。高麗屋一族との関係も愛情を込めて記されている。あのとき岩藤が吉右衛門だった理由も分った。