再放送を観た。以下NHKのサイトからの引用。
3月第1週目は、平成23年9月の秀山祭大歌舞伎から「沓手鳥孤城落月(ホトトギス・コジョウノ・ラクゲツ)」を放送する。坪内逍遥(1859〜1935)の作によるもので、淀の方を中心に、追い詰められた豊臣家の人々の姿を描いた作品。淀の方役を初役で演じた中村福助のインタビューを交えてご覧いただく。【出演】中村福助、中村梅玉、中村東蔵、中村又五郎、中村吉右衛門 ほか【司会】南野陽子、古谷敏郎アナウンサー
坪内逍遥の「淀君もの」では最晩年の六世歌右衛門が淀君を演じた『桐一葉』を観たことがある。足が悪くて立つのもやっとという感じだったが、淀君の狂気を鬼気迫る形で演じきったのが印象に残っている。
『沓手鳥孤城落月』も六代目の十八番だったが、こちらは観ていない。『桐一葉』もそうだがいわゆる新歌舞伎で、シェイクスピアの翻訳も手がけた逍遥が旧来の歌舞伎の伝統を打ち破り、シェイクスピアにも匹敵するような現代的な作品を目指したのである。逍遥翻訳のシェイクスピア劇を彷彿とさせる台詞で、その美文調の台詞は華やかな台詞の黙阿弥と双璧をなす。黙阿弥が江戸戯作の伝統の上にある口調のよさを楽しむ美文の台詞だったのに対し、逍遥の台詞は美文は美文でももう少し「説明的」である。でもどちらも現代のコトバではなく、やっぱり戯作の伝統の上にあるものなのだが。逍遥は二葉亭四迷に始まる「言文一致」運動を推進した一人ともいわれているが、彼の身体には抜き難い戯作の伝統的文章が刻印されていたのだろう。現代人が考える口語体とはまったく違った文章、台詞である。
私にとっては初めての『沓手鳥孤城落月』、この放送で確認した逍遥節は彼のシェイクスピア翻訳よりもより現代的で、森鴎外のものに近い感じがした。調子の良い口調というよりも、もっと理屈っぽい。また劇の構成ではもっとその理屈っぽさが立っていた。つまりリーズニングがしっかりしているというか、歌舞伎芝居の荒唐無稽さ、筋のジャンピングといったものがまったくみられなかった。事件が起きる背景が明確に描かれ、筋も順を追って納得できるような構成となっていた。
これは「中村歌昇改め三代目中村又五郎 中村種太郎改め 四代目中村歌昇 W襲名披露」と銘打った襲名興行なので、秀頼を新又五郎が演じていた。歌昇については今までの歌舞伎の観劇歴中、とくに印象には残っていない。先代又五郎は舞台で拝見したことはないが、海外に出かけて行って歌舞伎指導をしたとか、当時の若手の歌舞伎役者に稽古をつけたということで、その人となり、ポリシー等はたびたび耳にしていたし読んでもいた。先代吉右衛門の薫陶を受けた播磨屋の伝統の生き字引のような方だったわけで、彼の名跡を継ぐというのは歌舞伎役者にとっては名誉あることに違いない。新又五郎、母淀君の狂気につきあわされ、うんざりしつつも、母を思いやるどこか気弱な秀頼を好演していた。いかにも現代的な秀頼だった。
一方淀君を演じた福助は意外だった。今までの福助のイメージが180度転換した。美しく気品があるがどこか親しみやすい女形を演じては右に出るものがなかったが、こういう役もはまり役になったんだという、あの福助も年齢を重ねたんだという感慨をもった。およそ狂気じみた性根を演じる人と考えたこともなかったので、意外だった。お父さまの芝翫よりその点では数等上な気がした。伯父さまにより近いかも。意識しているんでしょうね。
ご子息の児太郎、裸武者を演じたのだけれどほとんど裸。薙刀を振り回しつつの殺陣は大衆演劇の殺陣を見慣れた私にはかなり物足らなかった。階段落ちもそれなりにサマにはなっていたけれど、いかんせん武者とよぶには身体が細すぎた。歌舞伎の常套、肉布団をつけてするという手もあるのでは。
うなったのはやはり吉右衛門。秀頼家臣で徳川との決戦を主張する主戦派の内膳を演じたのだが、台詞回しはさすが!だった。対して降伏派の修理之亮の梅玉はどこか狡猾な人となりを無理なく演じていた。それにしてもあのオトコマエの梅玉さん、「お年を召されたナー」なんて勝手なことを考えていた。彼のニンに合っていると私の記憶に残っているのは、三代目鴈治郎(現坂田藤十郎)と組んだ『曾根崎心中』の徳兵衛役で、その美貌に「説得力」があった。
それにしても去年9月の「秀山祭」をみておけばよかったと、後悔。福助、新又五郎、吉右衛門の絡みはみる価値十分だったのに。