3月のプラハの国際学会での発表が『明治一代女』についてなので、年末から年始にかけてその資料にするのに二十数冊もの本を買い込んでしまった。当初、ジェンダー論とサイコアナリシスで分析するつもりだったのだが、『明治一代女』のモデルが花井お梅という実在の人物で、しかも当時耳目を集めたいわゆる「毒婦」だったということで、歴史資料にあたっておく必要が出て来たからである。
『明治一代女』(1935)そのものは原作、川口松太郎で、新派風のメロドラマに仕立て上げられているのだが、もとの「花井お梅事件」そのものはずっと時代をさかのぼり1887年(明治20年)の出来事である。もと柳橋、後に新橋の売れっ子芸者で当時は茶屋を経営していたお梅が自分の箱持ちをしていた峯吉を刺し殺した事件で、彼女はこの事件の8年前(1887年)の強盗殺人事件の犯人、高橋お伝を継ぐ「毒婦」として巷間を賑わした。高橋お伝事件は当時丁度近世と近代の移り変わりの過渡期にあった新聞にかっこうのネタを提供した。虚実ない交ぜになった(というか、虚の部分の圧倒的に多い)記事が連日発行され、加えて戯作の伝統が色濃く残っていた文藝の世界でもお伝をモデルにした小説が書かれ(これもほとんどが虚構だった)、黙阿弥が歌舞伎芝居にしたりした。お伝は裁判で無実を訴えたが、結局斬首刑となった。そこには時代とジャーナリズムとの共犯関係が働いていたのは間違いない。
花井お梅事件もお伝の場合と同じく、新聞に連日のように取り上げられ、裁判にも高い関心が寄せられた。また服役している間も新聞にネタを提供し続けた。判決は無期で、お伝のような処刑は免れた。例に漏れず彼女の事件は文藝関係者のつよい関心をひいたようで、川口松太郎だけではなくその他にもいろいろな人たちが小説、芝居にしている。演劇では黙阿弥が歌舞伎に、川口松太郎、伊原青々園、北條秀司が新派芝居に仕立てている。
出所後の動静にも関心が集まり、彼女自身からの事件のあらましの聴き取りといういわばドキュメンタリー調の取材が『花井お梅懺悔譚』(1903年、明治36年)として出版された。これは本来なら歴史資料編纂所に出向いて、コピーしなくてはならないのだろうけれど、ラッキーなことに電子資料になってネットで(近代デジタルライブラリー)読むことができるし、もちろんそれを印刷もできる。これは彼女自身が自分の生い立ち、事件のバックグラウンド、そして刑務所内の実情を語ったもので、とても興味深い読み物となっている。彼女が自分の懺悔録を教訓として役立てて欲しいという下りはそれなりに「納得」できるのだが、驚かされるのが、彼女が強く受刑者の待遇改善を訴えている箇所だった。
「お梅事件」を当時のジャーナリズムがどう捉えたのかを調べるのには、当時の新聞、例えば東京日々新聞、読売新聞、仮名新聞等の新聞にも当たらなくてはならないのだろうけれど、それが私の論の眼目ではないので、これらは二次資料を使うつもりにしてはいる。それも学者、研究者、ジャーナリストなどがすでにいろいろな形で資料を使った本を出版していてくれるので、今のところはそれらを使うつもりである。
出所してからのお梅の動静もそれなりに人の耳目を集めたようで、それを題材にした小説やドキュメンタリー調の読み物が出版されている。その中でも「いかにも」と思ったのが、彼女が旅芝居に参加、自分自身の殺人の場を舞台で演じてみせていたという話だった。53歳で没したということである。
私の発表は川口松太郎の『明治一代女』が新聞や彼女自身の「懺悔録」をどう換骨奪胎して新派風の芝居に創り上げたのか、またなぜそういう虚構化を施す必要があったのかといった点に照準を合わせて論じるつもりにしている。川口自身が深く花柳界に馴染んだ人で、その美学を表象するのに芸者を美化する必要があったわけで、またそれには昭和10年という時代も深く関わっていた。昭和10年といえば二・二六事件の前年であり、その翌年には盧溝橋事件から日中戦争が勃発している。不穏な時勢だった。
当分「毒婦」から縁が切れそうにもない。