yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

学会終了

今日が三日目の最終日。朝9時から6時までの長丁場。疲れた!

一昨日の初日のみが午後2時から5時までで、昨日も今日も律儀に朝9時からはじまって5時過ぎに終わった。普通の学会なら専門の関係分野、たとえば『比較文学」とか「シェイクスピア」というように限定された領域になるので、発表内容もたいていは見当がつき、「理解を超えていて取りつく島もない」なんてことはあまりないのに、この学会は「学際的」なことが売りなので(テーマは「悪」だった)、発表者の分野も多岐にわたる。だからどうアプローチしたらよいのか困る。質問しようにも、それがあまりにもナイーブなものになるのではとつい気後れしてしまう。とくに二日目までは分野がポリティカルサイエンス、ジャーナリズム、文化人類学、歴史などで、それぞれとても面白い発表ではあったのだけど、内容を理解しようと必死で、それだけでどっと疲れてしまった。

最終日の今日はなぜかすべて哲学系の発表に集約していた。で、昨日までよりはるかに面白かった。とくにレヴィナスについてのものは興味深かった。発表者の出身はトルコで、今シカゴにあるカトリック系大学でPh.D.コースにいる若い女性だった。ハイデガーの「ダーザイン」へのレヴィアンスの批判はつとに知られているけれど、その根拠を「倫理学」的な見地から検証したものだった。

私はの発表は『明治一代女』のなかのお梅についてのものだった。川口松太郎が事件当時の新聞等に造形されていった「毒婦」としてのお梅像を自身の作品中でどう変形させたのか、そしてそれはなぜだったのかを当時の社会/政治状況からあきらかにするものだった。海外での発表のときは常にそうなのだが、消化不良感が残っている。おのれの姿を否応なく見なくてはならず、思いっきり背中をたたかれた気がする。この感覚を持ち続けるのが肝心なのだ。さもないと毎日忙しいことを言い訳に自分の研究を「サボリたおす」から。

私の発表の司会をしてくれたのが博士論文執筆中という若いフィンランド人学生だった。彼の英語の完璧だったこと!参りました。勤務先で留学生への日本映画論を去年まで担当していたのだが、そこに来ていたフィンランド人学生の英語をはるかに凌いでいた。私の学生も英語で論文がかけるほどの実力はあったのだけれども。このフィンランド人院生は札幌に1年間滞在したことがあるとかで、熱烈な親日家だった。既に日本語を6年間勉強していて、日本語も流暢だった。これにも降参だった。ヨーロッパには桁違いの秀才がいるのだと改めて感心した。この人もいずれアメリカでもPh.D.をとるつもりのようだった。この人の発表はアメリカ(軍)刑務所における「拷問」ついてだった。190センチはゆうにある「巨漢」さんなので、アメリカでも劣等感を感じることはないだろう。その点もウラヤマシイ。

日本の北海道にいたということで、北海道に来た数少ない大阪人が発する「なんでやねん」がお気に入りだったそうである。日本の話で大いに盛り上がったのだけれど(これ、英語でなく日本での会話だったのです)、日本にくることは当分なさそうだった。でも、ここまで日本が好きな人がいるというだけで、なにか温かい気持ちになった。なんてたって、日本を一歩出れば「日本贔屓」になるのです、日本人は。

今日はみんなで行く食事もパスして、ホテルに帰ってきた。実は昨日の発表終了後にめまいがして、今日も体調は万全ではない。というわけで、今日みるはずだったオペラもパスである。このホテルでの騒音がひどくて、最初の二日間あまり眠れなかったことも、めまいの原因かもしれない。イタリアの高校生の「修学旅行」(?)とおぼしき集団がずっと泊まっている。うるさいのなんのって!こんなのは海外、日本での旅行で初めてに近い。昨日はあまりにもめまいがひどかったので、レセプッションにその旨いったけれども、それがどの程度効くのかは未知数。あまりひどいとホテルを変えて、クレジットからの引き落としをリファンドしてもらおうかと考えている。