yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『恋女房染分手綱』@国立文楽劇場11月12日昼の部

長い観劇歴で初めてあきれ果てるような経験をした。そのためにせっかくの楽しいはずの観劇が台無しになってしまって、未だに憤りが消えない。

3週間前にネット予約をしたのだが、床近くの席は空いていなくて、A席でもずいぶん後ろの席になった。これが大いなる失敗だった。この『恋女房染分手綱』の二段目から後方席から話し声と笑い声がする。振り返ってみると声の主が3列ほど後ろの席の若い男女だと分かった。いつも劇場の左右の端で「迷惑行為」がないかを見張っている劇場の人も注意しない。「重の井の子別れ」が佳境に入ったときにも、声は止まず笑い声もするので、舞台の熱演に集中できなかった。

この演目が終わってからの幕間に劇場の人に注意してくれといっていたら、そこへ年配の男性が割って入り、「差別するな」という。何のことかわからなくてきょとんとしていると「身障者にも観る権利がある。あんたのいっていることは差別だ」と言い募る。興奮して一方的にまくしたてるので、道理もなにもあったものではなかった。身障者、この場合はおそらく精神的に問題がある人たちだったのだろうが、その人たちが話し声、笑い声で他の観劇者に迷惑をかけないのならば、何の問題もない。だが、舞台を楽しみにしている者の明らかに迷惑になるような行為をしている限り、それは当然退場すべきことで、それは[身障者」であろうが健常者であろうが同じ条件のはずである。それを「差別」というなら、それこそ本当の差別になってしまうだろう。幕間が終わって席に帰るときにふとみるとその男性は例の二人連れの横の席にいた。おそらく同伴者かなにかだったのだろう。そういうわけの分からない(理屈にもならない)理屈を良い歳をした男が主張するということに、日本社会の病理をみた気がした。「お気の毒さま」としかいいようがない。

幕間の間に二人連れは他の席に移されたようであるが、それにしても劇場側が「迷惑行為」があった際、その場で対処しなかったことが残念である。もっとささやかなノイズでも、今まで観劇した劇場では担当者が飛んできて注意、阻止していた。文楽劇場、一体どうなっちゃっているんだろう。私の横には外国人学生が5人ほど座っていたのだが、幕間に退出したまま戻ってこなかった。こういう行為を止めさせない劇場なんて、外国では経験したことがない。そういうのが日本では「常識」だと思われたのだろう。恥ずかしい。外国では子供は騒音をたてる可能性があるから、当然劇場にはつれてゆけない。子供対象の演劇以外は。これが世界の常識である。

『恋女房染分手綱』も残念だった。というのも「重の井の子別れ」の段を語るはずだった嶋大夫さんが病気で欠場。代わりをつとめたのは呂勢大夫さんだった。もちろん私は彼が大好きで高く評価しているが、それでも嶋大夫さんのあの嫋々とした語りの域には今一歩の気がした。時折中腰になる(これは嶋大夫さんゆずり)熱演だったけれど、母親の切々とした情を表現するには、やはりもう少しの年季が必要なのかもしれない。

これは歌舞伎では何回か観たことがあるのだが、いくつかある見せ場、たとえば「道中双六」の場面などは、ビジュアル度ではやはり歌舞伎の方が勝る。また重の井がくれた金子を三吉が投げ返すところなども、演出面では歌舞伎の方がよりドラマチックにできるだろう。ビジュアル的には見せ場が多いので、そうなるとどうしても生の役者の迫力には適わない。

あの雑音がなければもうすこしアプリシエイトできたはずで、その意味ではこの評価はフェアでないかもしれないのだが。