yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

竹本住太夫さんを悼む

4月28日に亡くなられた。あの伝説の豊竹山城少掾の最後のお弟子さん。ずっと文楽のトップを走って来られた大夫。1989年に人間国宝。

2014年5月に、68年に及ぶ大夫生活に終止符を打って引退されていた。生前は文楽劇場に乗られる度に、その素晴らしい喉を堪能させていただいた。アメリカに行っていた8年間を除いて、1992年から引退されるまでの間、文楽劇場にせっせと足を運んだっけ。また、東京に遠征中に文楽が国立劇場に乗ったときには、迷わず観劇した。そのころはまだ玉男師匠もお元気で、お二人の掛け合いは劇場全体を揺るがすような迫力だった。どちらかというと「立ち」的な語りの方が良いように思った。もちろん、女性役の語りも他の若手がとても及ばないだけの域に達してはおられたのではあるけれど。

それをしっかりと認識させられたのがなんといっても『摂州合邦辻』。あの玉手が悶え死ぬ場面の凄みは忘れられない。娘の玉手を手にかけざるを得なかった合邦の嘆きも情が溢れ出て、その悲しみがこちらの胸を打った。未だあの語りを超えるものを見ていない。

「文楽データベース」で確認したところ、その舞台は2001年4月の文楽劇場でのものだった。「合邦住家の段」を野澤錦糸さんの三味線で語られた。ちょうどそのとき文楽は初めてという大学の同僚を同伴したのだけれど、文字通りオイオイ泣かれて、とても恥ずかしい思いをした。何しろ大夫床真ん前の席を陣取っていたので。その前に歌舞伎にも同伴したけれど、そちらの方はあまり感動しなかったよう。ケンブリッジ大学で博士号を取ってこちらの大学に勤め始めたばかりの人で、文楽の浄瑠璃には日本人の心の琴線に触れる何かが存在していることを認識させられた。

住大夫さん(「大夫」でなく「太夫」っていうのに未だ抵抗あり)の舞台と言えば、ずっと昔は文字久太夫さんがずっと下がった脇についておられた(能で言えば後見の感じ)。師匠の語りを聴き逃すまいという必死さが伝わってきた。住太夫さんが汗を拭う、そして白湯(?)を飲む。それをじっと見つめる文字久太夫さん。その光景がまざまざと甦る。師匠と弟子との遠くて近い関係。意味もなく感動してしまう。

その文字久さん、この1月、4月の文楽劇場公演での語りにノックアウトされてしまった。ステージがぐっと上に上がったように思えた。「住太夫!」って心の中で叫んでしまった。本当に似ておられた!引退した住太夫さんが喜んでおられるような気がした。いやいや、「まだまだや!」っておっしゃっておられたのかも。でもきっと「さすが我が弟子」って、本音では思われたに違いない。それが過去の情景と重なって、胸が熱くなる。

きっと住太夫さんは安心されたのだろう。どうか安らかにお眠りください。あの世でも、あの情感に溢れた語りを披露しておられるに違いない。