yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

琵琶と「語り」の系譜

琵琶の稽古を始めるにあたり、先日京都まで見学に出向いた。京都駅前ビルのカルチャーセンターで先生が出張レッスンをされているのだ。前に聴いた琵琶の演奏会でも分かったのだが、琵琶の演奏は「語り」の上に成り立っている。琵琶の演奏だけでもついて行けるかどうかかなり心配なのにその上、語りの訓練もしなくてはならないとなると、果たしてこの怠け者の私がどこまでやって行けるのか、はなはだ心もとない。

「語り」とはプロットをただ単に語るものではなく、浄瑠璃の大夫の語りをみれば分かるように、語る内容をまるでその場でおきているかのごとく生き生きと甦らせるものである。こういう捉え方は西洋でも共通しているのかもしれない。というのもあのマイケル・ジャクソンが、「もっとも尊敬する人はどんな人?」という質問に「ストーリー・テラー」と応えているからである。これはまさに「語り」であり、マイケルがそれに高い評価を与えていたことは実に興味深い。彼の芸術の本質が垣間見える返答だからである。ストーリーを語るということは、ただ筋を伝えるだけではなく、いかに臨場感溢れる場を語りから立ち上げることだからである。

琵琶では『平家』を語ることが多いが、それも当然かもしれない。というのも『平家』そのものが琵琶法師による語りによって日本全国に伝播していったものであり、その演奏を聴いた人たちは平氏公達のドラマに感情移入し、涙したのだ。琵琶の演奏による語りでそこまでのドラマを繰り広げられるのは、すばらしい力量である。また技術である。

今琵琶を演奏するのはそれを受け継ぐことである。もちろん琵琶の演奏そのものは琵琶法師の頃からは断絶している。私がならう筑前琵琶も明治になって始まったようである。でも「語り」の方が相棒(琵琶)を覚えていて、語りに琵琶が自然と一体化するという経験の中に、中世の琵琶法師の演奏が浮かび上がってくるのではないだろうか。

これはあくまでもうまく行った場合であり、私自身がどこまでできるかについてはあまり自信がない。