yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『平家物語』を読み始めた

加藤秀俊さんのひそみに倣って、『平家物語』を原文で読み始めた。岩波文庫で4冊本になったもので、岩波の「新日本古典文学大系」と同じく梶原正昭、山下宏明校注である。こう書いて、ペンシルバニア大のPh.D.のコンプの時にも山下宏明さんの著書や論文にお世話になったことを思い出した。もう10年近く前のことなんだと、気づいて愕然とする。「光陰矢の如し」と思い知らされ、また「その間一体何をしていたのか」と、臍を噬む思いもしている。当時、博士論文を仕上げさえしたら、平家やら源氏やらに没頭できると楽しみにしていたのだった。

「古典はやはり原文で読むに限る」という認識も新たにした。もともと琵琶法師が琵琶の演奏にあわせて語った作品なのだからよけいそうなのだろうが、文にリズムがある。ゆっくり目に音読するとその場その場の様子が鮮明に立ち上がってくる。あの有名な冒頭の部分がその典型だろう。

冒頭部分もだが、内容を理解するには相当な教養が必要である。日本の(当時)の古典、歴史はいうに及ばず、中国の古典、歴史まで広くカバーする教養が要求される。私などはもちろんお手上げで、注と首っ引きである。これでもアメリカの大学院で日本、中国の古典をかなり読まされてきて多少の自負はあったのだけれど。チョーサーやらシェイクスピアならぬ日本の古典でここまで自分の無知を思い知らされると、逆に晴れやかな、かつhumble な気分になった。お勉強、つまり研究対象としてではなく、とことん楽しんでやろうと思うようになった。

『平家』の巻一の「殿上闇討」で清盛の父、平忠盛がすがめ(斜視)でそれがために天皇御前で舞を舞った際「酢瓶の瓶子」と囃されたというのは有名な話で、それは平家の本拠地が伊勢でその伊勢の特産が酢を入れておく瓶だったことにひっかけた嫌がらせだったそうである。なんとも上手いことをいうと、最初にその箇所を読んだとき(アメリカでだった)思わず吹き出してしまった。今あらためて平家を読んでみると他にもこれに類する例が多く出てくるのに気づいた。当時の人がこういう妬みからくるものも含めて、ウィッティな人たちだったとひとしきり感心する。

祇王と仏御前の話は余りにも有名だし、大学時代に彼女たちの隠遁の地、嵯峨野を訪ねたことを思い出した。このエピソードは女性作家、女性研究者なら「飛びつきたくなる」魅力的な題材である。現にいろいろな人が扱っている。原文で読むと、感情移入させるような描写が極力排されているので(これは『源氏物語』にもいえることだが)、逆に切々と胸に迫ってくる。それにひきかえ清盛の手前勝手さ、無神経さ、地獄の業火に焼かれても仕方ない位ひどいものである。私が閻魔なら一度といわず何度も焼き殺してしまう。

こんなことを考えていると、以前にみた溝口健二の『新平家物語』の清盛が浮かんできた。たしかあの中では清盛はdecent な若武者として描かれていた。吉川英治の原作もおそらくそういう風に清盛を描いていたのだろう。それにしてもこのギャップ。書き手のスタンス、見方が変われば同じ歴史上の人物を扱ってもずいぶんと違った造形になるものなのだ。

回想、妄想とりまぜて私の「平家』は進行中である。