yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

吉屋信子のすごさ

とにかく「すごい」としか形容の仕様がない。一種のモンスターである。それもとびきりかわいい、少女っぽいモンスターだ。

この9月のオックスフォード大での発表はマンガのNANA についてである。それも主人公二人の「同性愛」についてのもので、サイコアナリシスを援用し、やや手あかのついた感もある「トランスヴェスタイト」(変装、異装)を中心にすえるつもりにしている。

日本マンガにはれっきとした「百合」というジャンルがあるのは知ってはいたのだが、この作品を分析・批評するにあたって、本腰をいれて「研究」しようと考えた。で、アマゾンでこのジャンルの70年代から最近までの代表的マンガを収集した。読み始めたのだけれど、どうもいけない。入り込めない。物語展開がワンパターン、稚拙である。それらに比べると、NANAは桁違いにすぐれものである。NANAがここまでの人気を、それも幅広い層から博している理由がようやく分った。嶽本野ばらのノヴェラ・ライトノベルもこれらの百合作品を凌駕している。

百合の元祖と言えば、なんといっても吉屋信子、そしてその少女小説だということで、こちらも早速資料収集を開始した。古書でしか手に入らないものが多いということは、かなりが絶版ということか。宝塚の図書館にもお世話になった。図書館から吉屋の初期の作品群を借り出して読んだのだが、例のマンガ群とはまったく違ったみごとな構成力、人物描写力に感服した。少女小説と侮ることなかれ。ひさびさに物語を読む楽しみにふけることができた。ただ電車の車中で読むと、その表紙がいかにもな夢二ばりのもので、ちょっと気恥ずかしい。『毬子』紅雀』『返らぬ日』そしてみすず書房から出ている<大人の本棚>中の吉屋信子作品集をまず手始めに読んだ。圧倒されたのは『紅雀』だった。そのストーリー展開の妙にうなった。

これはただものではないという思いを強くしたので、伝記がないか調べたら、なんと田辺聖子が『ゆめはるか吉屋信子』(上下巻)を出していたのでこれも早速読んだ。田辺聖子さんの原点と方向性が吉屋信子とのそれらと重なっているのが分った。田辺聖子さんは信子を語るのに最適の伝記作家だったと思う。愛情をこめてかかれていて、行間から信子というひとが生き生きと立ち上がってくる。そういえば嶽本野ばらさんも吉屋信子へオマージュを書いているのだが、田辺さんとはちがったところで信子と共振しているのだろう。

田辺さんの信子伝記に戻って、この中でいちばんずしりと胸にこたえた下りがある。それは信子の『徳川の夫人たち』についての箇所である。以下にそのままあげる。

さあ、ここからは、原文で信子の<張り扇の名調子>を味わいたい。明治期以来、日本の文学者たちは新輸入の西洋文学理念を身につけるのに急で、従来の日本文学がゆたかに蓄えてきた<物語>の滋味を、かえりみる必要もなき贅肉として、こそげ落としてしまった。しかしその贅肉の中にこそ、芳醇な甘露があるのではなかろうか。民族の底辺のエネルギーを育ててきたものは、<物語>の味わい尽くせぬ風味だったのではないか。

「そのとおり!」と思わず膝を打った。源氏物語などの日本古典文学にみられる<物語>の伝統は、他ならぬ女性作家によって現代に甦ったのである。

それで『徳川の夫人たち』と『女人平家』も図書館で借り出し読み終えた。『徳川の夫人たち』は未だ高校生の頃に読み、感動したのだが、また違った感慨があった。『女人平家』は初めて読んだのだが、膨大な歴史資料を集めるという作業が質・量ともに夥しいものだったのが窺えた。それら渉猟し、血肉化したのが一つの大きな物語となったのである。複層的に組み合わされた小さな物語が信子の確かな目によって、ひとつのテーマのもとに統合されてゆくさまはさながらオーケストラの演奏を聞いている観があった。もう怪物としかいいようがない。田辺の伝記では死期を覚悟した信子はこの最晩年の『女人平家』を寸暇を惜しんで執筆したそうである。70歳をゆうに超えてこれだけの大作にとりかかり、それを仕上げたのはあっぱれ以外のなにものでもない。もちろん陰で支えた門馬千代がいなくては不可能だったのだろうが。