yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

初々しい敦盛が哀しかった河村紀仁師の能『敦盛』in 「観世青年研究能」@京都観世会館7月17日

河村紀仁さんといえば、京都観世会館、河村能楽堂の受付でお見かけすることが多かった。穏やかな優しい方で、一度財布をトイレに忘れた折にも丁重に対応していただいた。今までシテをされたのは見ていない。これが正規公演での初シテ?だったのだろうか。

面をつけておられてもお若いことは、その姿形でわかる。所作も優しく、嫋嫋とした中にも武士ならではの剛毅さが滲み出ている。それらが敦盛という16歳のうら若くして散った公達を形象化するのに、これ以上ないほどぴったりだった。また敦盛といえば、平氏に生まれながらも貴族として幼い頃から育てられてきた品の良さ、芸術への共振性などが身体から立ち昇っていなくてはならないけれど、その点もあっさりとクリアされていた。能のお家に生まれ、厳しい芸の修行を積んでこられていることの証左だろう。見ていてとても清々しく、心が洗われるような気がした。まさに時分の花。今演じることに意味があったのだと感じた。チラシ裏のご自分の抱負でもその旨を述べられている。そのチラシ裏をアップしておく。

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当日の演者一覧は以下。

シテ 平敦盛・草刈男  河村紀仁 

ツレ 草刈男      浦田親良

ツレ 草刈男      寺澤拓海 

ツレ 草刈男      樹下千慧 

ワキ 蓮生法師     原大 
   (かつての熊谷直実)

アイ 里の男      山下守之

 

笛           左鴻泰弘 

小鼓          林大和 

大鼓          山本寿弥

 

後見    浦田保観

      林宗一郎

地謡    河村浩太郎  大江広祐  鷲尾世志子

      大江泰正   味方 團  河村和貴 

『平家物語」を始め、歌舞伎でも人口に膾炙した物語ではあるけれど、一応概要を例によって『銕仙会能楽事典』よりお借りする。

一ノ谷合戦で平敦盛を討ち取った熊谷直実は、悔恨の念から出家し、蓮生(ワキ)と名乗っていた。彼が敦盛供養のため須磨を訪れると、そこに草刈りの男達(前シテ・ツレ)が現れ、そのうちの一人が敦盛の縁者だと名乗る。蓮生から念仏を授かった彼は、自分こそ敦盛の霊だと仄めかし、姿を消してしまう。

その夜、蓮生の眼前に敦盛の霊(後シテ)が現れた。生前の復讐をしようとする敦盛だったが、蓮生は念仏の功徳の前に因縁など存在しないと告げ、敦盛は懺悔として生前の様子を物語る。やがて、再び妄執の心を起こした敦盛は蓮生に斬りかかるが、懇ろに弔う蓮生の姿を見て回心し、回向を願いつつ消えてゆくのだった。

中野顕正氏が続けてより詳しい解説を「みどころ」として付けておられる。ちょっと長いけれどとても啓発的なので引用させていただく。

本作の主人公・平敦盛は、平清盛の弟・経盛の末子で、わずか十六歳(十七歳とも)にして一ノ谷合戦で命を落とした、薄幸の貴公子です。『平家物語』は、その最期を次のように伝えています。

 

――一ノ谷合戦で平家の敗北が確実となった頃。源氏方の武士・熊谷直実が落ち延びる平家の武将を探していると、沖ゆく船の方へと馬を泳がせる一人の武者を見つける。呼びとめる熊谷。引き返してきた彼の顔を見ると、なんと少年であった。熊谷はすぐさま彼を組み敷き、名を尋ねるが、彼は答えない。あまりの痛わしさに助けてやろうとする熊谷だったが、周りには既に源氏方の武士たちが集まり、とうてい逃げることはできぬ状況。熊谷は泣く泣く、彼の首を刎ねる。
彼の死骸を見ると、身には一つの笛。熊谷には思い当たることがあった。昨晩、源氏の兵士たちの耳に聞こえてきた、平家の陣中で吹く笛の音。さてはその笛の主は、この人であったのか。戦地にあって風雅を忘れぬ彼の姿に胸打たれた熊谷は、世の無常を悟り、法然上人の弟子となって出家を遂げたのだった。
後に聞けば、この貴公子こそ、平経盛の子・敦盛だったのであった…。

 

このエピソードの後日譚である本作は、出家した熊谷直実(蓮生法師)の眼前に敦盛の霊が出現するという、二人の再会を描いた物語となっています。そして、『平家物語』では熊谷の視点から物語が語られ、敦盛を討たざるを得なかった熊谷の苦悩が描かれるのに対し、本作では敦盛自身に自らの胸中を語らせている点に特色があります。いわば本作は、二人の再会を通して『平家物語』では語られなかったものを描き出す、“答え合わせ”のような作品だといえましょう。


それゆえ、『平家物語』には描かれなかった敦盛をめぐる物語が、本作では明らかになります。本作にも登場する〈敦盛が合戦前夜に笛を吹いていた〉というエピソードと〈熊谷に出会ったとき、敦盛は沖ゆく船を目指して馬を泳がせていた〉というエピソードは、『平家物語』の中ではあくまで別々の話とされていましたが、本作ではこの二つが結びつけられ、〈敦盛は一門の人々と遊宴を楽しんでいたが、にわかの戦闘開始に人々は彼を見捨てて逃げてしまい、残された敦盛が沖ゆく一門の船を茫然と見送っていた所に、熊谷がやって来たのだ〉と語られます。平家一門と苦楽をともにし、罪深き運命さえも共にしながら、最後の最後に見捨てられてしまった敦盛。そんな“友”の不在を嘆く彼の孤独が、本作には描かれているのです。

 

そんな敦盛が、来世まで続く〈真実の友〉としての関係を、それもかつての敵であったはずの蓮生との間に結ぶ――というのが、本作の結末となっています。
敦盛は、過去の妄執と現在との間で揺れていました。上記「8」の場面で蓮生との間に〈真実の友〉としての関係を確認しあったのも束の間、「11」の場面では再び妄執が湧き起こり、蓮生を斬ろうとします。懺悔として過去の辛い日々を語りはじめた敦盛は、その中で唯一の慰みであった遊興の思い出に浸って舞を舞い出しますが、実はそれは、自分が見捨てられ死に至った、その悲しみの記憶と一体のものだったのでした。束の間の喜びの思い出が、芋づる式に悲しみの記憶を呼び起こしてしまう…。そんな葛藤の中で、呼び起こされた憎しみの心に突き動かされ、敦盛は蓮生へと刃を向けるのです。
しかし、そんな敦盛の姿を、蓮生は静かに受け止めていました。既に俗世を離れ、敵味方のしがらみを捨てた蓮生。そうした利害関係を乗り越えた蓮生だからこそ、一門にさえ見捨てられた敦盛の、〈真実の友〉となってやることができたのだ――。本作は、そのような形で、結末を迎えることとなります。
孤独な嘆きに生きる敦盛と、俗世の怨讐を振り切った蓮生。仇敵同士であった二人がはじめて結ぶ友情の物語が、本作には描かれています。

この解読のハイライト部「懺悔として過去の辛い日々を語りはじめた敦盛は、その中で唯一の慰みであった遊興の思い出に浸って舞を舞い出しますが、実はそれは、自分が見捨てられ死に至った、その悲しみの記憶と一体のものだったのでした。束の間の喜びの思い出が、芋づる式に悲しみの記憶を呼び起こしてしまう…。そんな葛藤の中で、呼び起こされた憎しみの心に突き動かされ、敦盛は蓮生へと刃を向けるのです。」が秀逸である。

生前の遊興の優美と喜悦が、そのまま地獄に落ちた後の加虐として跳ね返る理不尽。そんな苦しみに苛まれる敦盛の行き場のない口惜しさ。修羅能ではあるものの、他のものよりもずっと霊の過激さが少ないと感じるのは、少年敦盛であるからかもしれない。あるいは、「青葉の笛」で知られた敦盛の音曲通暁が、激しさの通奏低音になっているからかもしれない。

後場で平家の公達姿で登場した敦盛を見た時、なぜか涙が出てきたけれど、その風情がまだ少年(数えで16歳ということは満年齢14歳?)敦盛の無念を滲ませていたからだろう。語らずとも自ずと出てきていた。

清々しく軽やかな感じが終始舞台を覆っていた。青年能ということで、お囃子も含めて演者の方々皆さんお若い。それがこの世阿弥作の「時分の花」を描いた番組にふさわしかった。そこにはギリシャ悲劇のような悲劇的壮大・荘厳を際立たせる「硬質」がない。地、空に吸い込まれてしまい、残るは微かな余韻のみ、まるで風が去った後の虚しさとでもいおうか。その虚しさを愛おしむのが、観客に残された唯一の受け止め方のように感じつつ、見ていた。