yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

彼岸との交流を希求された林宗一郎師シテの能『清経 恋之音取』 in 「十三世 林喜右衛門 玄松 三回忌 追善能」@京都観世会館 7月6日

いつもの宗一郎師の舞台とは一味違っていたような。それは平清経の人となりを表現するためだったのだろう。かなり大人しめというか、抑制をいっぱいに効かせた演技で、清経の自死を選ばざるを得なかった心持ちが伝わってきた。どう言ったらいいのか、「『Looser清経』のやり場のない悲しみ」のようなもの。それでいて、やはりその「負の美学と」でもいうものが、見ている者の心に響いてくる。そういう舞台だった。それは、お父上を亡くされた宗一郎師の悲しみと共振していたのかもしれない。晴れがましい舞台というのではなく、しんしんと、せつせつと、訴えかけてきた。宗一郎師が2年前に亡くなられたお父上の喜右衛門師と彼岸・此岸を超えて交流されているのが、そのまま舞台になっていたのかもしれない。

世阿弥作というだけではなく、非常に格の高い演目だというのが、隅々から伝わってきた。

以下に当日の演者一覧を。

シテ 平清経   林宗一郎

ツレ 清経妻   河村浩太郎

ワキ 淡津三郎  福王知登

 

大鼓    河村大

小鼓    大倉源次郎

笛     杉市和

 

後見    観世清和 大江又三郎 坂口貴信

地謡    浦田親良 大江泰正 宮本茂樹 松野浩行

      大江信行 味方玄 片山九郎右衛門 片山伸吾

 

1年半前に大槻文蔵師シテの『清経 恋之音取』をみて、記事にしているのでリンクしておく。

小鼓は今回と同じく大倉源次郎師。笛が昨年亡くなられた藤田六郎兵衛師だった。ちょっと苦しそうにされていたのが甦ってきて、辛くなった。林宗一郎師はこの折、地謡方に入っておられた。

小書「恋之音取」がついたものの特徴として、シテが橋掛りから登場し、進む際、笛単独の演奏になっている。以前に見た時には不注意で気づかなかったのだけれど、今回は予習したおかげで注視できた。清経の心持ちを笛のみで表現するというのが、引き算の美学とでもいうべきもの。「負の美学」とも共通している気がする。

よく参照させていただいている「あさあかのユーユークラブ 謡曲研究会」の曲解説が非常に詳細で参考になる。引用させていただく。

この『清経』の「恋之音取」というのは小書というそうで、特殊演出を言うそうである。私が持っている小学館の謡曲集では、シテが登場して最初の語りが「聖人に夢なし~」であるが、この小書が付いた演出では、笛方が非常に重く扱われるそうで、何故かは訊かなかったが「聖人に夢なし~」は詞章からは省略され、小野小町の歌からシテの語りが始まるようになっている。これは明治からの演出だそうで、それ以前はすべての台詞を語っていたとも言っていた。 この演出は、最期まで笛を手放さなかった清経ならではのものだそうで、シテ登場前に笛方が地謡座の前に出て、そこで奏でられる笛方の妙なる調べに導かれるかの如くに、橋掛よりシテが登場する演出となっている。 その場面で数回笛の音が止むのであるが、その瞬間舞台全体に漲る静寂が素敵だ。

清経の特徴
通常の修羅物とは違った点が清経にはいくつか見られます。 
①前場と後場がない。『シテが化身で旅僧の前に現れ、後半で正体を現して修羅道の苦しみを救ってもらう』のが通常の修羅物の構成です。『例: 屋島、敦盛』 
②シテが自力で成仏する。 清経は海に飛び込むときに自分で唱えた念仏の功力で成仏します。(普通は旅僧などに弔ってもらって成仏します。) 
③小書き「恋之音取(こいのねとり)」 
多くの能に「小書き」という通常とは違った演出が存在します。清経も例外ではなく、「恋之音取」という小書きがあります。どういうものかというと、地謡の「手向け返して…枕や恋を知らすらん」のところで笛方が少し前に出て幕の方に向かい「音取」という特別の譜を吹きます。するとその笛の音に誘われるようにして清経の亡霊が幕から出て、笛が止めば止まり、吹き出すと歩き出す…という動作をしながら舞台に上がるという演出です。笛を愛した清経らしい演出ですね。 

「シテ登場前に笛方が地謡座の前に出て、そこで奏でられる笛方の妙なる調べに導かれるかの如くに、橋掛よりシテが登場する演出となっている」とあるのはまさにこの通りだった。そして「その場面で数回笛の音が止むのであるが、その瞬間舞台全体に漲る静寂が素敵だ」というところも。その時の静寂の気が舞台を終始覆っていたような気がする。