なんでこう日本の年寄りには道義心が薄いのかとイヤになる。公共交通機関を利用して通勤していると、あきれた行動をとるのは圧倒的に年寄りである。自分のことしか考えていない。この人たちの年金が自分の納めた税金でまかなわれているのが、本当に腹立たしい。彼らには日本の将来なんてどうでもいいのだろう。そんなこと知っちゃいないのだ。だってそのときにはもう自分たちはいないのだから。
年寄りを甘やかしているとしか思えないような政策、人気取りの政策を政府がとっている限り(民主党政権は特にひどいが、自民党も五十歩百歩だった)、日本には未来はないだろう。世代間格差が今ほど顕著なときはないのに、それでも若い世代が革命や暴動を起こさないのが不思議な位だ。そこは聖域なのだろう。マスコミもその点ではだんまりを決め込んでいる。
年をとれば取るほど賢明になり、寛容になるというのは真っ赤な嘘である。実態はより愚かに、より自分勝手に、より欲深くなっている。
まさに定期試験の季節、昨日は試験監督があり補助監督をしたのだけれど、いやな年寄りの教師に出くわして、めげてしまっていた。学生が本当に気の毒である。
アメリカの大学のコースで自分の著書を買わせる教師はゼロだった。授業では毎回100ページ近いリーディング・アサインメントがあるが、担当者が自分の著作を使うことはほとんどなかった。使うとしたら、一部をコピーしたものを学生に配布していた。断っておくが私が受けた授業の担当者はほとんどが「有名」教授で、著書もいくつもあったのにもかかわらずである。
ところが日本では(たいして有名でもないし、優秀でもない)教授が自分の著書を授業の唯一のテキストとして使う、つまりそれを学生に買わせることで印税を獲得する、といったことが多くの大学でまかり通っている。学生こそいい迷惑である。何千円もするテキストを買わされる羽目になるから。それが非常に優れた本ならいいのだが、たいていはそうでもしないと売れない本なのだ。
しかも定期試験で、担当者が自分の書いたテキストだけを持ち込み可にするなんて、言語道断である。テキストのコピーを持ち込むのは厳禁で、みつかれば「カンニング」扱いにするというのだ。昨日はそういう輩の試験監督に当たってしまい、見たくもない事実を見る羽目になった。年配の担当者、それに年配の主任監督者という最悪の組み合わせで、プラスもうひとつあきれかえることがあって、つくづく日本の大学で教授といわれている年配の教師の道義心を疑ってしまった。最低だ。「てめえは実力以上の給料をもらっているだろう。この上豊かでない大学生からまだふんだくる気かよ!」とムカムカする。
これもある意味年寄りと若者との世代間のコンフリクトと解釈できなくもない。こういう年寄りがあらゆる組織を牛耳っているとしたら、日本にはほんとうに救いがない!
というわけで一日気分が悪かった。