yoshiepen’s journal

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「大学受験資格にTOEFL 国内全大学対象 自民教育再生本部、1次報告へ」産経3月21日付け記事

記事の冒頭は以下。

自民党教育再生実行本部(遠藤利明本部長)が国内全ての大学の入学試験を受ける基準として、英語運用能力テスト「TOEFL(トーフル)」を活用する方針を固めたことが20日、分かった。月内にまとめる第1次報告に明記し、夏の参院選政権公約に盛り込む。
対象は、全ての国公立大学と私立大学。大学の学部ごとに点数基準を定め、クリアした者に受験を認める。たとえば、東京大学文科一類(主に法学部に進学)の受験資格は「TOEFL○○○点以上を獲得した者」と定め、公表する。点数基準は各大学に自由に定めさせる。TOEFLは英語圏の大半の大学で留学志願者の英語能力証明として使われており、留学の活発化を通じて国際社会に通用する人材を育成する狙いがある。
 TOEFLの導入は、実行本部が、安倍政権の大学入試改革の目玉に位置づける施策の一つ。英文読解を中心とした現在の高校の英語教育のスタイルを一変させる可能性もある。このため、教育現場に混乱を来さないよう平成30年度ごろからの導入を想定している。
 日本では英語能力試験としてTOEFLのほか、受験者が最も多い「実用英語技能検定(英検)」や、英語によるコミュニケーション能力を測る「TOEIC(トーイック)」などが実施されている。実行本部は、結果がそのまま海外留学の申請に転用できるTOEFLを採用することにした。

驚いた。6日前にTOEFLについてのブログ記事を書いたところだったから。既に、東京大学大学院の大半の研究科で入試の際に成績の提出を義務付けられていて、さらに、「国家公務員総合職の採用試験にTOEFLを導入する方針」とのことである。

現場はさぞかしパニックになるだろう。TOEICではなくTOEFLを選ぶというのには双手をあげて賛成だけど、生徒、学生に自習で受験対策しろというのは、無茶である。TOEIC受験勉強は基本的に自習でするものだし、それはさほど難しいことではない。それを多くの大学では授業に組み込むという、ナンセンス極まりないことをやっている。こんなもの、大学でやることではない。私個人としては憤懣やる方なかった。

TOEFLは問題の質がまったく違うから、生徒、学生が自習で対策をするのはかなり大変である。というか無理だろう。いささかなりとも、アメリカのハイスクール、大学にいたとか、卒業したとかでない限り、一人で対策できるような簡単な問題ではない。

最近、こんなにもTOEFLが変ったのを知って驚いたと同時に、さもありなんと思った。私が受験したころの問題のままでは、いくら高得点をとっても、大学の授業について行ける保証にはならないことを、受け入れ側の大学は分っていたはずだから。刷新されたTOEFLはその点がずいぶんと改良されている。以前はListeningとReadingの二部になった試験だった。それに対し、新TOEFLは多領域に渡る実際の授業に近いレクチャーを聴いて、その内容把握をチェックし、それについての意見を口頭でのべるといったもの、また比較的長い批評文を読んで、そしてそれについての短いレポートを書くといった、Listening/Writing/Reading/Speakingが混在したものとなっている。つまり、以前のTOEFLにあったような、文法問題は一切ないし、あらたにSpeaking, Writingが加わっている。それもレクチャーの内容をはっきりと掴んでいない限りまったく刃がたたない問題ばかりである。

6日前のブログ記事にも書いたが、これを指導できる教員が日本の高校にも大学にもほとんどいない。英語圏の高校、大学、大学院で授業を受けたことがなければ、どう指導して良いか、きっと見当もつかないだろう。アメリカの大学、大学院を修了していない教員がそういう授業を担当するなら、彼ら全員TOEFLを受けるべきである。その結果が惨憺たるものであることは、火をみるより明らかである。

おそらく「現場」からは相当な抵抗があるに決まっている。その結果、結局は頓挫するのではないか。「教育再生」の第一義をグローバル人材を育てるということに置くならば、今回の「TOEFLの導入」案は踏み絵になるだろう。

「なんで英語?」って反対する人たちはずっといたんですよね。たしかに日本にいればそう問題がないかもしれないけど、海外の人間と渡り合うには、英語を介在させるしかない。その場合、ことばそのものもあるけれど、それ以上にそれが背景とする文化が大きな意味をもつ。それはなにも芸術やら文学やらをいっているのではなく、意思疎通をはかるときの「態度」のようなものである。そこそこの自信をもって(自分で言うのもなんだけど)アメリカの大学院に入ったものの、そしてレクチャーにしてもセミナーにしても理解できていたけど、それをreproduceする際、自身のものとして出すこと、それを介して他者との意見交換をすることがなかなかできなかった。何ヶ月も「レイプされてるみたい」という思いだった。それを通過儀礼としないかぎり、前には行けない。

日本の大学教師がアメリカに「留学」(つまり1年から2年程度の「在外研究」)しても、英語のレクチャーが理解できない、どういう議論が闘わされているのかが分からない。英語のレポートが書けないという状況で、結局授業には出て来ないのをみてきた。そういう人たちが、どうやって学生に「指導」できるのですか。端から結果は分っている。

わが職場でも「英語関連授業は英語で講義する」といったチョットした「改革」をしようとしても、「英語を聴き取れない、英語でしゃべれない、英文を書けない」といった三重苦の「ヘレン・ケラー」的英語教員はものすごい抵抗をしてきたし、今もしている。それが日本全国となると、猛烈な反発、抵抗が起きることは想像できる。