yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

クリスチャン・ツィメルマン ピアノリサイタル@兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール12月9日

プログラムを貼っておく。

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最初のパルティータ第一番が始まったとき、その優しい音色に涙ぐんでしまった。なんという癒し!穏やかで優しい音が干からび、こわばった心にしみわたるような気がした。乾燥した草にゆっくりと、じんわりと慈水が注がれてゆく。そんな感があった。おそらく場内にいた人のほとんどが同様の想いで、この類稀なる演奏に聞き入ったのだろう。ピアノ演奏を聴くには巨大すぎるKOBELCOホールの隅々にまでその音は響き渡った。KOBELCOでの演奏ということで、あまり期待していなかったのだけれど、案に反して素晴らしいアコースティック。密やかにさえ思える音のひとつひとつが、くっきりと聞き取れた。先日ブレハッチのピアノ演奏をシンフォニーホールで聴いたばかりだったけれど、こちらの大ホールの方が音響に優れているように感じた。これは意外だった。

ペダルを多用しないところは、グールドのバッハ演奏と共通しているように感じた。ゆらゆらと揺蕩う舟に身を任せ漂いつつも、落ち着く先は決まっている。そういう安心感があるのはバッハ。構成の堅牢さが際立っているから。ツィメルマン氏、ときどきハモっているのがわかり、おかしい。それもグールドみたいなんて考えて聴いていた。割とステージに近い2階上手席だったから聞こえたのかもしれない。

緩やかな音の流れが、最終のジーグになると跳ねるような響きが立ってきて、華やかさが際立たされ、楽しい。あの若いツィメルマンが今や中年?になっているのに、そこにいるのは若いころのままのツィメルマンであるような、そんな感じがした。

続いての第二番は一番とは様相が変わって、ドラマチックな出だし。この組み合わせはいいな。雑とも思える和音の連なり、そこからまた軽やかなテンポになるのも、一つの劇展開を聞かされているような感じ。激から穏になり、また追いかけっこのような軽やかなフーガが続いてゆく。非日常が日常に、そしたまた非日常になるまさにドラマ。この流れが最終章のカプリッチョになるとより強調される。でもあくまでもフーガなので、どこか安心感がある。いつか終わりが来て、収まるだろうと。

そしてその追っかけっこはいとも唐突に終わる。

ツィメルマンはこの第一番と第二番の間ほんの数分退場しただけで、ステージに戻ってきた。流れを切らないようにというそういう彼の意図があったのだろうか。いともあっさりと観客の拍手に応えるのも、彼らしいのだろう。

休憩を挟んでの後はブラームスとショパン。ブラームスもツィメルマンらしい弾き方だったのだろうけれど、やはりショパンは自家薬籠中の作曲家。最後にピアノソナタを持ってきてくれたことに感謝。期待を裏切らないすばらしい演奏だった。

雑味がない清らかな音色。キリッとしたひとつひとつの音が立っている。激しい和音は心の裡にひめた情熱の吐露。その情熱をコントロールしながら、なだめながら演奏は続く。激しい音の連続に感じられる清らかさは、ツィメルマンの人柄をしのばせる。流麗なタッチは独特で、他の奏者には真似できないもの。大御所の弾くソナタと比べればそれは一目(聴)瞭然だろう。ショパンのピアノソナタでは彼の右に出る演奏者はいないことを再確認できた演奏だった。

アンコールはなかったけれど、おそらくこの場に集った人すべて大満足で帰途についたに違いない。