のちに「会津の小鉄」と呼ばれるようになった浪速出身の侠客上坂仙吉と、新選組隊長近藤勇との馴れ初め、交友を描いている。もちろんフィクション。最初に「これは完全にフィクションです」というアナウンスがあった!
主たる配役:上坂仙吉を勘太郎さん、近藤勇を真吾座長、土方歳三を祐馬さん、狂言廻し役の新選組若い隊員(名前なんだったけ?)を虎太郎さん、松平容保公を和也さん。
仙吉と新選組との邂逅のきっかけが仙吉と新選組隊員とのいざこざ。京の街の市中警護を任命されていた新選組。隊員はそれを鼻にかけ、傍若無人ぶりが京都人の目にあまっていた。「俺を誰だと思っているんだ。新選組隊員だぞ!」と言って店での無法を働く若い隊員(虎太郎)を止め、「新選組、知らんな」と言い放った仙吉。
新選組と街のチンピラ博徒、仙吉との対立が土方歳三の知るところとなり、近藤は土方をつれ仙吉と会い、隊員の無作法を詫びる。それを聞いた仙吉、自身の放言の侘びの印だと言って、自らの指を切り落とす。唖然とする近藤と土方。仙吉が去った後、「いい男だ」と言い合う。
当該隊員は厳しい咎めを受ける。本来なら「局中法度」によって切腹を命じられるところ土方の温情でそれを免れ、厳重注意を受けた隊員。その不満、心の隙に、スパイの長州系浪士(真吾座長の二役。それにしてもこういう悪役が決まっておられる)が付け入る。新選組を陥れる策を図っていたのだ。まんまと引っかかり、結局はそれがばれ、またもやひどい叱責を受けるが、ここでも土方、そして仙吉たちの仲裁によって、命は助けられる。
男気と仁義に篤い仙吉に惚れ込んだ近藤勇は、仙吉を京都守護職の松平容保公(和也)に引き合わせる。仙吉は松平容保公のはからいにより、会津藩の京都藩邸で働くこととなる。仙吉も近藤勇の「誠」の精神に共感していたのだった。やがて仙吉は、新選組を支える様々な活動を繰り広げることになる。
小劇場のそれを思わせる簡素な舞台。大道具、背景がほとんど変わらない。背後の幕の変化によって、場面転換を補うという方法。幕が閉まった前でも人物間の会話があり、これによって時間を一切無駄にしない方式。
最後の場面では一つ高い段が設けられる。背後には「會」の書が掲げられている。もちろん会津藩を表している。この切狂言と対になった前狂言『の最終場面も同様の舞台設定だった。前狂言『勘太郎版 石田散薬』の主人公は、新選組隊士の山南敬助だった。つまりこの日は「新選組尽くし」というわけ。さすが「真吾・勘太郎の日」だけのことはあった。真吾さんがすごい役者なのはよく分かっていたけれど、勘太郎さんのすごさを強く認識させられた。
華麗な舞台装置、大道具、小道具等の助けが一切ない舞台。無駄は極力削ぎ落とされている。セリフのキャッチボールで成立する(させる)舞台というのは、大衆演劇(旅芝居)で見たことがない。役者が揃わないとできないから。劇団荒城の役者、一人の例外もなくセリフを「話す」。言葉の真剣勝負をすることができる。迫力が半端ないので、見ている側も引き入れられ、参加することを余儀なくされる。
真吾座長は口上の際、「次々と挑戦する新作劇、これらは他劇団のために作っているようなもの」とおっしゃっていたけれど、たとえ荒城の芝居をもらっても(盗んでも)、それをここまでのレベルで舞台化できる劇団はないと思う。少なくとも私の知る限りない(そういや大阪で見た劇団で、真吾さんに芝居を「もらった」と言っていた劇団も2つほどあったっけ)。筋を真似ても、役者の解釈力、演技力がともなわなければ、内実の伴わない単なるコピーにしか過ぎない。それでは「仏作って魂入れず」の空疎な芝居になってしまう。
残念ながら歌舞伎では「仏作って魂入れず」の芝居が最近多い。見終わった後の空虚感が悲しい。串田和美さんのような演出ができる人がいない?
それらに対し、劇団荒城の舞台は役者の魂がこもった、全身全霊で演じられる舞台である。この座長が率いているので、そこに付いている座員さんたちも「必死」なのだと思う。一人一人の舞台への強い念が相互に化学作用を引き起こし、見事に優れた舞台となって結実している。どの舞台も例外なくそう。失望させられたことがない。それにしても、こういう複雑、複層的なプロットを考え出す真吾座長、勘太郎座長の頭の中はどうなっているんだろう。小劇場的、実験劇場的な試み。ほとんどが人の心理に、その闇に深く入り込む内容になっている。だから、観客を選ぶかもしれない。感性だけでなく知性も必要なんです、楽しむには。「送り出し命」のような客では、ダメなんですよね。でも本物の芝居を見たいと思う人は、百パーセント劇団荒城にハマると思う。