演者さんは以下の方々。シテも地謡もお囃子も当代トップの方々を取り揃えての贅沢な舞囃子だった。
シテ 片山九郎右衛門
地謡 河村晴道 味方玄 林本大 山田薫
笛 左鴻泰弘
小鼓 成田達志
大鼓 山本哲也
太鼓 前川光範
作者の世阿弥自ら「上花也」(『申楽談儀』)と評した『井筒』は、演じるシテにとって並外れて難しい作品だろう。おそらく演じるたびごとに、満足できなかったという思いが残る作品なのではないだろうか。同時に鑑賞する側にも、かなりの緊張を強いてくる。息を詰めて、舞台の時空間の中に全神経を投入して見続けなくてはならない。
シテが身体の内へ内へとエネルギーを抑え込みながら舞う。次第に溜め込んだエネルギーの量が多くなってゆく。そのエネルギー量に比例して、舞台全体の張り詰めた雰囲気が濃くなって行く。まるで空気が、演者と観客の溜め込んだエネルギーを吸い込み、どんどん濃くなって行く感じ。
精神を統一して、シテの舞と一体化して舞台を注視する。舞台では極力無駄を排したシテの舞。あくまでもゆったりとした動きに終始する、その緊張の応酬の中で、それが破られるのは、シテが井戸に向かって進むとき。すすっと前に出て、井戸を覗き込む。その部分の詞章が以下。
筒井筒 井筒にかけし
まろがたけ
生ひにけらしな
老いにけるぞや
さながら見みえし 昔男の 冠直衣ハ 女とも見えず男なりけり 業平の面影
見ればなつかしや
我ながらなつかしや
記憶にある昔の自身と業平との姿と、現在の老いた自身とを比べ、やがて我にかえる。懐かしいものの、蘇った昔は二度と還ってこない事実に愕然とする。なんと虚しいこと。一身に憂愁をまといつつ、シテは舞を納める。最後まで押さえ込んだ緊張感が舞台を支配していた。見終わった後、舞台の空気が緩むと同時に自分の身体も緩んで、やっと一息入れることができた。
男性に「変身する」ところ、Transvestite(異性装)を種にしたサイコアナリシス理論を援用したい欲望にかられるけれど、そういうのが憚れるほどの何か凛とした矜持に満ち満ちた九郎右衛門師の舞だった。世阿弥の最高傑作の『井筒』、九郎右衛門師の本舞台で見ることができればいいのだけれど。