作者は元雅?
能『藤戸』は、その一見理不尽なストーリー展開で、屹立しているように感じる。作風から世阿弥の息子、元雅の可能性が高いという。納得である。親子間の悲劇を描くのも、元雅らしい。悲劇に余韻が残るのも、元雅らしい。ある種のdetachmentを感じるんですよね、その終わり方に。いかにもあっけない幕引きに、「求道」を絡めた諦観が覘くのが、元雅らしいと感じてしまう。
『藤戸』解説
作品解説に、銕仙会の『能楽事典』の「概要」を借用させていただく。
馬で海を渡るという大手柄を立て、恩賞として備前国児島を賜わった、源頼朝の家臣・佐々木盛綱(ワキ)。意気揚々と現地に赴いた盛綱であったが、そこへ一人の老女(前シテ)が現れ、盛綱に息子を殺されたと訴え出る。実は、盛綱が手柄を立てたのはこの浦の男に浅瀬の場所を教わったからで、そのとき口封じとして男を殺し、海に沈めていたのだった。はじめはしらを切る盛綱だったが、やがて観念し、その時の様子を語る。息子の最期の様子を聞いて泣き崩れ、わが子を帰せと迫る母の姿に、盛綱は男の供養を約束するのだった。
その夜、盛綱たちが供養をしていると、水底から男の亡霊(後シテ)が現れた。男は回向に感謝しつつも、盛綱の手柄に貢献しながら不条理に殺された恨みを述べ、そのときの苦しみを語りはじめるのであった。
演者一覧
当日の演者一覧は以下。
前シテ(漁師の老母) 橋本雅夫
後シテ(漁師の亡霊) 橋本雅夫
ワキ(佐々木盛綱) 殿田謙吉
ワキツレ(盛綱従者) 則久英志
ワキツレ(盛綱従者) 梅村昌功
アイ(盛綱の下人) 茂山逸平
笛 森田保美
小鼓 成田達志
大鼓 山本哲也
シテの橋本雅夫師
前シテの漁師の老母を演じられた橋本雅夫師は、ワキ(盛綱)に迫る場面に鬼気迫るものがあった。グッとワキの手前まで身体を乗り出し、迫る様が非常にリアルだった。以下の箇所である。
とてもの憂き身なる物を、亡き子と同じ道に、なして賜ばせ給へと、人目も知らず伏し転び、我子返させ給へやと、現なき有様を、見るこそ哀れなりけれ *1
前場のこの勢いと比べると、後場の漁師亡霊は、出端からネガティブな沈潜を感じさせるものだった。「恨みは尽きぬ妄執を、申さむ為に來たり」と言いながら、妄執を外に発信するというのではない。自らの裡に籠められ、抑圧された妄執。その姿そのものが、哀しみの衣を纏っている。橋本雅夫師の後シテにはこの感じがあった。
お囃子方
お囃子方に勢いがあった。とくにTTRで組まれている小鼓の成田達志師、大鼓の山本哲也師のコンビは、乗りに乗っておられた。ワクワク、ゾクゾクしながら演奏に身を委ねていた。森田保美師の笛は小鼓、大鼓の勢いに寄り添う演奏で、調和の妙を感じさせた。
『藤戸』の魅力
能『藤戸』は、先月古橋正邦師のシテで見ている。また、素謡では梅若実師で聴いていて、これは当ブログ記事にしている。感動的だった。さすが梅若実師と思わせられた。これで三回『藤戸』を体験したことになるけれど、非常に魅力的な作品だと感じた。理不尽な展開、終幕にもかかわらず、ストンとこちらの心持ちに落ちてくるというか、納得させられる。おそらく、諦観の中に普遍的な哀しさ、あえていえば「生の哀しみ」というようなものが、覘くからかもしれない。
*1:『謡曲百番』(岩波書店、1998)、395頁。ここに脚注を書きます