yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

能『朝長』 in 「TTR能プロジェクト冬公演」@大槻能楽堂 2月2日

演能の前に、村上湛氏による解説があった。朝長という若武者像が浮かび上がってきた。日本人好みの悲運の英雄である。

 

あまりにも短い朝長の生涯

『朝長』は演じられる機会がさほど多くない演目だという。あまり演じられないのは、朝長がいわゆる正史で語られる「武者」ではないから。朝長は義朝の次男として誕生したものの、三男の頼朝が嫡子となった。それは彼の母方が単に地方の郷士、波多野氏であったのに対し、頼朝の母は強大な政治力、経済力を誇った熱田神宮の宮司の娘だったからだという。非情な政治的力学の上に成立していた男系系譜と、それから外れた者の悲哀が胸に迫った。村上氏は当日いただいたパンフレットにもかなり踏み込んだ論を展開されていて、この能の背景になっている源一族の正統と傍流との関係、及びそれに翻弄された一人の若者の姿が浮かび上がってくる感を持った。朝長は平氏に旗を挙げた父の義朝につき従い、挙げ句の果てに見捨てられ、厳寒の滞在先で自害したという。なんという悲運。その若さからは「青葉の笛」の平敦盛を彷彿させるけれど、父に捨てられたという点では、ずっと悲惨かもしれない。

「父−子」にこだわった観世元雅らしい着眼

しかも作者は(おそらく)世阿弥の子、元雅。元雅は「父と息子の永遠に解決できない緊張関係」を描くことが多いように思う。自身、世阿弥という天才を父に持つ境涯であったということも関係しているのかもしれない。この父と子の関係、フロイト的解釈を導入すれば、興味深い分析が可能だろうし、そうしたい誘惑にかられる。元雅が題材として選択するのは、「制度としての父に抗う子」の物語であることが多いように思う。元雅という能の作り手の、ある種の宿命・必然を強く感じてしまう。『朝長』にこういう分析をかけることで、平坦で平和だった能世界に波紋が起き、動揺が広がる。見る側はその波紋から無縁ではいられない。心がざわつくのを禁じ得ない。

修羅になりきったシテ

この日の演能では、第二場で特に修羅能の粋(すい)を見た気がした。武者であってもまだ「幼さ」を留めている朝長、そしてその霊。十六歳という若さで追い詰められ、自害をせざるを得なかったその最期。そういうイメージはくっきりとこちらに迫ってきた。さすが浅井文義師。徹底した解釈の上に成立したシテの演技だった。

「TTR」とは?

「TTR」とはそもそも大鼓の山本哲也師、小鼓の成田達也師のお二人のコンビを指す。だから当然お囃子方はこのお二方。それぞれに素晴らしい芸術性とそれを可能にする技術とを持ち合わせておられる。私がみた「TTR公演」はこれで二度目。前回もそのチャレンジ精神に圧倒されたけれども、今回も同じ感慨を持った。ずっと続いていってほしいプロジェクト。私もできるだけお邪魔したい。

以下に演者一覧を。

シテ    浅井文義 

シテツレ  大槻裕一 

      齊藤信輔 

ワキ    宝生欣哉 

ワキツレ  大日方寛  御厨誠吾 

アイ    茂山千三郎
笛     杉市和 

小鼓    成田達志 

      大鼓 山本哲也 

太鼓    中田弘美

 

後見    大槻文蔵   赤松禎友

 また、公演チラシの表、裏をアップさせていただく。

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