yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

マリア・カラスのアリアの美しさに圧倒される『私は、マリア・カラス』(Maria by Callas) @シネピピア 2月20日

映画公式サイトから画像をお借りする。

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作品詳細

スタッフとキャスト

マリア・カラス好きには堪えられないほど、全編彼女のアリアに満ち満ちている。その合間を、彼女が友人たちにあてた手紙、ドキュメンタリーフィルムが埋めるという構成。以下が「映画.com」からお借りしたスタッフ、キャストと解説。

スタッフ

監督

トム・ボルフ

製作

トム・ボルフ

エマニュエル・ルペール

ガエル・レブラン

エマニュエル・シャン

 

キャスト

マリア・カラス

佐々木俊尚氏の評によると、トム・ボルフ監督は世界中を駆けずり回って彼女のプライベート映像を集め、また未完の自叙伝原稿も収集したという。集められた手紙は400通を超えているとか。 

マリア・カラスへのインタビューが軸

彼女自身へのインタビューもいくつか収められている。あの「20・20」での辛口インタビューで有名なバーバラ・ウォルターズのものもあった。ただ、映画冒頭から何度か挿入される1970年の白黒映像のものが、彼女の女優としての一面を最も的確に捉えているように感じた。自身の不幸を隠すのではなく、一人の女の人生の一コマとして、客観的に語る様が印象的だった。表情がとても豊かで、表現力も並外れて高く、知的な人であることがわかる。まるで禅問答のような「どれが真実のカラスなの?」という「追求」に応えたのが、タイトルになっている「Maria by Callas」なのだろう。

世界トップの歌姫(ディーバ)として、常にマスコミに追いかけ回される。そこでは常に彼女は笑っていた。これ、衝撃だった。痛々しかった。スキャンダルのネタを振りまいているようで、本人は傷つき、打ちのめされていたに違いないから。血の涙を流しているように感じてしまった。あの大きな造作の顔は派手で押し出しも強いけれど、そこには繊細な魂が見え隠れする。その繊細を隠し、繕うための仮面があの笑顔だったのではなかったか。笑いの向こうにあったのは、ただの空虚だったのかもしれない。

パゾリーニの『王女メディア』でメディアを演じる

パゾリーニの『王女メディア』撮影風景は、別の「彼女」を浮き彫りにしていた。彼女自身が「オペラ歌手には演技力が必要」と言っているけれど、それを裏打ちしたのが女優デビューだったのでは。夫、イアソンに裏切られ、その復讐として彼との間の子供たちを殺した王女メディア。その姿は長きに渡る愛人、オナシスに裏切られた彼女と被る。その喪失感がダブってくる。でも、撮影現場の彼女は淡々と演じているように見えた。しかも、彼女の不幸を追い回してくるマスコミにも、穏やかな笑顔で答えている。泣けます。

カラスは王女メディアのような復讐をするわけではなく、ただ静かにオナシスが彼女の許に帰るのを待った。彼のことを心から愛していたのだというのが、映像の間から蒸気のように立ち昇ってきていた。 

『蝶々夫人』の着付け

それと、割と初めの方にプッチーニ『蝶々夫人』に出演したカラスが出てくる。なんと、着物を「きちんと」着ているのに驚いた。私が今までみた蝶々さんは着物姿がみるにたえなかったから。うれしかった。こういうところにも、「ギリシヤ」という異文化を纏ってヨーロッパやアメリカで生きざるを得なかったマリア・カラスという人の、異文化への尊敬の念が感じられた。

 

晩年はリサイタル中心に

オペラを歌うには体力の限界を感じた彼女が選んだ道はガラ、リサイタル。それらの映像もふんだんに使われていた。東京も含めて世界各地をツアーで回ったのだけど、やはりオペラに耐えられないことへの悔しさはあったに違いない。体力の衰えと声の衰え、そこに加えて私生活の不幸。これらが、繊細な彼女の耐えられる域をこえて彼女を襲ってきたのかもしれない。心臓発作で亡くなったということだけれど、毒殺説もあるとか。それもマリア・カラス伝説が未だに生きていることの証しだろう。

映画中なんども挿入されるプッチーニ作、『ジャンニ・スキッキ』の中のアリア、「私のお父さん」が彼女の豊かな表現力を余すことなく伝えている。Youtube映像があるので、リンクしておく。

アリア、「私のお父さん」

 

www.youtube.com