yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

若手の息遣いが聞こえた『冥途の飛脚』@国立文楽劇場 1月16日夜の部

各段の主要な演者一覧を以下に。

 

人形

  吉田玉男 (忠兵衛)

  豊松清十郎(梅川)

  吉田玉輝 (八右衛門) 

  吉田蓑二郎(母妙閑)

  吉田清五郎(下女まん)

  吉田玉志 (手代伊兵衛)

 

浄瑠璃・三味線

 淡路町の段

  <口>

    豊竹希太夫 

    竹澤団吾(三味線)

  <奥> 

    竹本文字久太夫

    鶴澤藤蔵(三味線)

 封印切の段

    豊竹呂太夫

    竹澤宗助 (三味線)  
 道行相合かご

    梅川  竹本美輪太夫

    忠兵衛 豊竹芳穂太夫

    他   竹本文字栄太夫

    他   豊竹亘太夫

    鶴澤清友 (三味線)

    鶴澤清馗 (三味線)

    鶴澤友之助(三味線)

    鶴澤清公 (三味線)

    鶴澤清允 (三味線)

 

まず、最も印象的だったのが、「淡路町の段」の「奥」を語った文字久太夫。ここ数年来、文字久太夫の語りには毎回圧倒される。文字久太夫が語っているとき、師匠の住太夫の語りがかぶるような気がすることが一度や二度ではない。住太夫にとても似ている。といってもそっくりではなく、彼の個性はしっかり出ている。これ、住太夫さんが望まれたことなのでしょう。すでに鬼籍に入られた住太夫師匠、きっと弟子の演奏に目を細められていることだろう。

『冥途の飛脚』は歌舞伎では「封印切」と「新口村」の場のみ切のみ上演されることが多い。この二場は、それこそイヤになるほど歌舞伎で見て来ているのに、文楽で見たのは20年以上前の一回のみ。その時の「封印切」は嶋太夫・清介のペアだった。

歌舞伎の「封印切」と文楽のそれとの決定的な違いは、まさに「淡路町の段」があるかないかにかかっている。歌舞伎版では、八右衛門は金持ちであることをひけらかす厭な男。その嫌味に耐えかねた忠兵衛が、金子の封印を切ってしまうという設定になっている。一方文楽「淡路町の段」では、八右衛門は同情心のある男として描かれている。本来なら彼に届けるべき50両を、勝手に梅川の身請けの手付け金として流してしまった忠兵衛の苦境を理解し、さらには義理の母親を前に忠兵衛を庇いだてするのである。

この後の新町の越後屋を舞台にした「封印切」の段で、八右衛門は二階に潜んでいた梅川や他の女郎達を前に忠兵衛との顛末をバラしてしまいはするが、それは事実であって彼の捏造話ではない。それを聞いた忠兵衛がかっとなって封印を切ったのは、ひとえに彼の見栄、短気と後先を考えない短慮による。歌舞伎版では八右衛門=悪、忠兵衛=善という明確な区分けがあり、それがドラマを成立させているけれど、本家の文楽版はそんな単純な人物造型をしていない。「善悪」の区分けは曖昧だし、それよりも忠兵衛の愚かしさにより重点が置かれている。

たしかに歌舞伎版の方が分かりやすいし、一般受けするのかもしれない。でもそれだと、忠兵衛は愚かな男ではなく、「英雄的」な人物になってしまう。いじめにあったものがギリギリのところで、相手に立ち向かった、そんな設定になる。どちらがよりドラマとして立ち上がるのか、どちらのドラマにリアリティがあるのか、それを判断するのは、見る者である。

この「封印切」は語り呂太夫、三味線宗助の最強コンビ。忠兵衛と八右衛門のやり取りを描くのに、浄瑠璃語りの調子の高低を過激に強調するより、どちらかというとじっくりと聞かせる方を選んでいた。あの歌舞伎版の封印を切るときのサスペンス感は少なく、むしろあっけないくらいだった。なまの人が人物を演じるのではなく人形を介在させることで、舞台と観客との間に距離ができているというのも、大きいかもしれない。

最後の段、「道行相合かご」では、その分より二人の人物に寄り添って、「道行」をハレの舞台にするような工夫がなされていた。何しろ三味線が五人なんですから。梅川の三輪太夫の華やかな声が、道行の祝祭性を最大限強調するのにぴったりだった。