yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

ベテランと若手の掛け合いは必見『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』@国立文楽劇場 1月14日第一部

予想を超えた舞台だった。

 

若手が「仕切る」活気に溢れた舞台

最近の文楽舞台は活気にあふれていて、そこに客として居るだけでもワクワク感がある。もちろんベテランの演奏も素晴らしく見応えがあるけれど、若手のエネルギッシュな演奏にも目を見張らされる。両者の掛け合いが、何年か前の舞台には乏しかった躍動感を生んでいる。ホント、そこにいるだけで楽しい。観客も若返っていて、「楽しんでやる!」という気持ちが強くあるように思った。

演者と観客の掛け合い

舞台と観客との掛け合いも、緊張の中にも和気藹々感を感じるものだった。その掛け合いが思わぬ「恩恵」を生んでいるように感じる。とくにこの『先代萩』のような「忠義」を扱ったものに。自らの子供を主への忠義立てに差し出すという感覚は、おそらく現代人には理解できないし、シンパシーを感じるのは無理だろう。それは『菅原伝授手習鑑』の「寺子屋」にもいえるのだけれど。歌舞伎でも単独でよくかかるこれらの狂言、私など思わず周りの人の反応を窺ってしまっている。 

独自の解釈から生まれる語りの客観性

歌舞伎でも文楽でも人間国宝(級)のベテランが主要な役を演じることが多く、それによって彼らが信奉する重みが自ずとこちらに迫ってくる。しかし、今回感じたのはその「重み」ではなく、どこか醒めた目で見ている感じだった。力演は力演なのだけれど、その力のベクトルの先が役柄の持つ思想(例えば「忠義心」)に寄り添い、その中へ入り込むというより、その人物をデフォルメして、浮き上がらせる造型法とでもいおうか。今回の語りの千歳太夫、織太夫にそれがいえるように感じた。しかも織大夫は病気欠場の咲太夫の代わりに切を語ったんですから。怒涛のような語りの中に呑み込まれそうになりながら、これが彼の戦略なんだと、勝手に納得していた。織太夫には、デフォルメするだけの役に対する理解とそこから生まれる独特の解釈法があるように感じた。ただ単に力任せに語るのではなく、解釈を介在させながらの語りになっていた。以前に聴いたときと、若干変化したように感じたのは、そのためかもしれない。 

若返りが著しい人形遣い

人形遣いにもそれはいえる。若返りが著しい。それにみなさんお上手!私は最初の演目、「二人禿」で禿を遣われた吉田一輔さんのファンなのだけど、彼ももはや中堅。そのあとに続く若手たちがきらびやかである。蓑紫郎、蓑太郎、玉翔さん達。お名前から師匠がわかる。そしていかほど精進しているかも、自ずとわかる。

また、彼らの大師匠の簑助さんが切で栄御前を遣われたのが、本当に嬉しかった。師匠の和生さん、勘壽さんもいつもながらの抑制の効いた、しかも美しい遣い。惚れ惚れとする。文楽が安泰だと確信する時間を持つことができた。

人形浄瑠璃から歌舞伎へ

この人形浄瑠璃は先行した歌舞伎のものを改作して浄瑠璃にしたもの。浄瑠璃から歌舞伎へという経緯をたどることが多いので、これは珍しいケース。「政岡忠義の段」を語る織太夫の大熱演も歌舞伎が下敷きにあることを知ると、もっともだと思わせられる。むしろ、今まで私が見てきた歌舞伎での政岡の嘆きよりも、浄瑠璃の政岡のそれの方がはるかに激しく胸に迫ってきた。いつもは歌舞伎版の方が(人形浄瑠璃版より)過度に感情移入があると思っていたので、これは意外だった。

以下、舞台の主要演者一覧。

 人形

  吉田和生 (政岡)

  桐竹勘壽 (八汐)

  吉田文昇 (沖の井) 

  吉田簑助 (栄御前)

  吉田蓑紫郎(小巻)

  吉田蓑太郎(鶴喜代君)

  吉田玉翔 (千松)

竹の間の段

  竹本織太夫 

  竹澤團七 (三味線)

御殿の段

  竹本千歳太夫

  豊澤富助 (三味線)  
政岡忠義の段

  豊竹織太夫

  鶴澤燕三 (三味線)

公演チラシの表と、裏の内容紹介と演者一覧を以下に載せておく。

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あらためて、文楽の持つ底力に感銘を受けた舞台だった。