yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

眼福・耳福の「阿古屋琴責の段」『壇浦兜軍記』in 「文楽初春公演」@国立文楽劇場 1月16日夜の部

先月、歌舞伎座で児太郎の阿古屋を見たばかり。最高峰に位置する女方役者が務める役だというのが、よくわかった。三曲を弾き分ける難しさだけではなく、存在そのものが華のきらびやかさを纏っていなくてはならない。出端の瞬間、「アァ!」と客席から嘆声が聞こえる、そんな役者でなくてはならない。

文楽で見るのは二度目。2014年1月に見ているが、そのときは三味線ツレの清志郎さんと寛太郎さんの演奏に聞き惚れた記憶しか残っていない。阿古屋の方をあまり見ていなかったんだろう。今回はしっかり見ました。というのも、勘十郎さんが遣う阿古屋が、出端から圧倒的存在感だったから。登場の瞬間、客が息を詰めるのがわかった。衣裳や髪飾り等がより艶やかになったのもあるかもしれないが、それ以上に勘十郎さんの押し出しの強さが前面に出ていた。しかも左遣いが一輔、足遣いが桐竹勘次郎さんとういう豪華版。普段は黒衣を被っている顔、表情が見えて、主遣いを支える苦労の一端を知ることができた。特に足遣いの大変さが窺えた。三人が「運命共同体」の態で一人の人形を遣っているさまは、それだけでも感動的だけれど、「阿古屋」が孕む重みのようなものが、ずっしりとこちらに来た。

以下が公演チラシ。

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初春文楽公演「阿古屋」のチラシ

筋書きにあった「技芸員にきく 桐竹勘十郎」では、阿古屋の(人形の)「手」は琴、三味線、胡弓とそれぞれ替えているのだとか。立女方を遣う師匠から弟子へと受け継がれて行くという。やはりそうなんですね。舞台での演奏のリアルさは、こういう細かいところへの「配慮」によって、立ち上がって来ているのですね。 

阿古屋を語るのは2014年公演と同じく津駒太夫さん。嫋嫋とバイブレーションがかかり、情に溢れた語り。高音部での微妙な高低のつけ方が心に響く。阿古屋の気概と同時に感情のヒダを語り分けて、素晴らしかった。重忠を語るのは2014年公演で岩永を語った織太夫さん。語りの太夫たちに入れ替わりがあり、若手陣がこういう「挑戦」ができるようになったのが、本当によかった。 

主三味線、2014年は寛治さんだったのだけれど、鬼籍に入られたので清介さん。ツレの清志郎、三曲の寛太郎さんは以前と同じ。懐かしいのと残念なのと、複雑な気持ちだった。演奏は以前と同じくいかにも晴れやかで、聴き惚れた。以下に主要な演者一覧を。

人形

  桐竹勘十郎 (阿古屋)

  吉田玉助  (重忠)

  吉田文司  (岩永) 

  吉田玉佳  (榛沢六郎)

  桐竹勘介  (水奴)

  吉田玉路  (水奴)

  吉田和馬  (水奴)

  吉田蓑助  (水奴)

浄瑠璃

  竹本津駒太夫 (阿古屋)

  竹本織太夫  (重忠)

  竹本津国太夫 (岩永)

  竹本小住太夫 (榛沢)

  竹本硯太夫  (水奴)

三味線

  鶴澤清介

  鶴澤清志郎 (ツレ)

  鶴澤寛太郎 (三曲)

『壇浦兜軍記』は元々人形浄瑠璃で大坂竹本座にかかったのを、すぐに歌舞伎が後追いしたという。もっともだと、納得。美しい女性が、責められるという嗜虐性。歌舞伎にはこういう嗜虐性を持つ役柄がいくつもあるけれど、その中でもどちらかというと「陽」に仕分けできるのが、この阿古屋だと思う。虐められる側からみれば、「陽」も「陰」もないはずではあるけれど。例えば、『金閣寺』での雪姫の虐めは、どちらかというと「陰」の方ではないだろうか。阿古屋はよりアグレッシヴに、虐めに立ち向かっているように見える。阿古屋のアグレッシヴさは、いささかも逡巡なく三曲を堂々と演奏するところに、明瞭である。それもあのいかにも重そうな豪華絢爛の衣装を着ての演奏。歌舞伎の阿古屋役も一苦労だろうけれど、文楽の阿古屋にも同等、もしくはそれ以上の苦労があることがよくわかった。それがわかったのも人形遣い三人の顔が見えたことによる。「運命共同体」と先ほど書いたけれど、一糸乱れない共同作業は、見ている側も参加しているような、そんな気持ちにさせられるものだった。

来月(2月)は東京の国立小劇場にかかる。それに先んじて、本拠地の大阪で先に舞台に乗ったことが、本当にありがたいしうれしい。