yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

味方玄師シテの能『井筒』@大津伝統芸能会館 9月1日

例によって、「銕仙会」の能楽事典から演目、『井筒』の解説をお借りする。それに当日の演者を明示しておく。

作者  世阿弥

素材

 『伊勢物語』第23段ほか

季節

 秋

種類

 三番目物・鬘物

 

登場人物

前シテ   里の女       味方玄

後シテ   井筒の女      味方玄

ワキ    旅の僧       有松遼一

アイ    里人        小笠原匡

笛    左鴻 泰弘

小鼓   吉阪 一郎

大鼓   河村 大
地謡   片山九郎右衛門 古橋 正邦 分林 道治
     深野貴彦 橋本 忠樹 梅田 嘉宏
後見   青木道喜 大江信行

 

あらすじ
旅の僧が訪れた在原寺で出会った、在原業平の墓に水を手向ける女性は、業平にゆかりのある井筒の女の霊でした。再び現れた井筒の女は業平の形見の衣を身にまとい、舞を舞います。 

演能前に歌人、林和清氏による『井筒』の解説があった。いつもならこういう「解説」は蛇足だと感じて、うんざりなのだけれど、この解説はその逆。とても楽しめた。能『井筒』は世阿弥が自身の作の中で最もよくできたものと位置付けていた(『申楽談義』中、「上花也」と自賛している)だけあり、『伊勢物語』でのエピソードと歌を、いかにうまく作品の中に組み込んでいるかという解説だった。エピソード部も紀有常の女(娘)、井筒の女の柔らかな人となりが、現代人の私たちにもよく理解できるように描写された。「むかし男」の在原業平像は、あくまでも井筒の女の美点を補足する(補強する)ものとして使われているのが、よくわかった。

そもそも『伊勢物語』の「主人公」と目される業平は、美男ゆえの浮名ぶりと、二条妃、藤原高子との道ならぬ恋で「有名」なので、夫婦愛を描いているこの作品には、違和感を感じてしまうんですよね。でも、妻の井筒の女から見ると、愛おしい夫なんでしょう。私は井筒の女の想いをどう自分に引き寄せ、共有できるかに、いささか疑問を持っていた。でも、そこは能特有の「転換」というか転覆があり、現世の世俗的感情が捨象され、現世をつきぬけた「理想形」で提示されるんです。時制がなくなるというか、そういう世界を開いて見せてくれる。それが可能になるのは、やはり演者の思索の深さ、それを形にできる技量による。味方玄師のシテを見たかったのは、きっとそれを可能にしてくださると信じていたから。期待は裏切られなかった。

『井筒』には「序破急」の急の部分がほとんどないように思う。後場の舞囃子のところ、ずっと緩やかな舞が続く。それが破られるのは、業平の直衣、冠を纏ったシテが井戸を覗き込むところ。シテはここで一旦ハッとして、それからつくづくと水面に映るわが身に見惚れる。ここのところ、林氏の解説がとても良かった。幾重にもなった「両性具有」性。男性が面をつけて女を演じ、そしてその「女」が自らを愛する男の像に重ねる。世阿弥がこの作品を「上花也」と自画自賛した理由のひとつはここにあったのかもしれない。そのある意味、知的なゲームを、まず知的に味わい、次に情の領野に知を同化させる。非常に手のこんだ段階が想定されている。その段階の終わりに初めて現世をつきぬけたものが表われ出る。そこでは世俗的な感情は止揚される。一言でいえば、これを表現するのは至難の技。並みの技量の演者だと、作品に負けてしまう。 

味方玄師のシテにもっとも惹かれたのは、その嫋嫋としつつも、底力のある謡だった。上下に揺れると見えつつ、したたかに「調」を保っている。でもどこか華やか。色々な矛盾というか齟齬を形にすることを求められるこのシテの役。それが優れた謡によって見事に形になっていた。

先日の大津伝統芸能会館での『小袖曽我』公演の折、『井筒』公演のチラシをみて、公演数日前に席を予約した。世阿弥の会心の出来であった『井筒』。未見だったし、観世寿夫師のものをDVDで見て以来の「憧れ」の演目だった。