解説と詞章は小原さんという方のサイトを参照させていただいた。ありがとうございます。小原さんは「宝生の能」平成10年5月号を参考にされたとのこと。内容解説もお借りする。
津の国日下(くさか)の里の住人、左衛門は貧乏の末、心ならずも夫婦別れをします。妻は京に上って高貴な人の後妻(「宝生」では「乳母」となっている?)となり、生活の安定を得ます。そこで従者を伴って難波の浦へ下り、夫の行方を尋ねますがわからず、しばらくこの地に逗留して探すことにします。一方夫は、落ちぶれて芦を刈りそれを売り歩く男になっています。ある日通りがかりの一行に、面白く囃しながら芦を売ります。そして問われるままに、昔仁徳天皇の皇居があった御津の浜の由来を語り、笠尽しの舞を舞うなどし、さて芦を渡す段になって初めてその人が自分の昔の妻と知ります。左衛門は思わず今の身の上を恥じて隠れますが、妻の呼びかけに和歌を詠み交わし、心もうちとけ、再びめでたく結ばれます。装束も改めた左衛門は従者の勧めで爽やかに祝儀の舞を舞い、夫婦うち揃って都へ帰ってゆきます。
この日の会、「後援会能」となっていたので、特別な会員でなくては入場できないと思っていた。でも九郎右衛門師が『蘆刈』を初演でされるのだと読んだので、やっぱり見たくて、ダメもとででかけた。飛び入りでも大丈夫とのことだったので、ホッとした。とはいえ、会場はやはりそれらしき方々が集っておられた。みなさん互いに顔見知りのようだった。
会場でいただいた後援会会報に、芦刈を演じられるに当たっての経緯が載っていて、興味深く読ませていただいた。お父上の幽雪師がそのまたお父上の先先代九郎右衛門師の「形附」に、ご自身で書き入れされた「演技メモ」に則って演じられたとのこと。さらに、幽雪師のお弟子さんたちも問い合わせられたとのこと。一つの能を舞台に乗せるということの責任といったものを感じてしまった。重いですね。そういえば京舞の井上流にも「芦刈」は所縁があるようで、二重に重みがあったことだろう。
九郎右衛門師、初演にもかかわらず、あるいは初演だったからかもしれないけれど、普段の舞台とは違った高揚感があるように感じた。全編歌の織物で編まれたこの能、いたって淡々と進行する。が、妻と再会したシテの男が、我が風態を恥じて橋掛かりの彼方に駆け去ってしまうところから、ドラマとしてアップテンポになる。遠くにうずくまる男の姿には、なんともいえない悲哀がにじんでいる。その直前には、謡に合わせて、軽やかに舞っていた(笠の段)のとは、対照的なんですよね。この嘆いているサマが真に迫っておられた。
この後、後見座で烏帽子と直垂を着けてからのシテは打って変わってうれしげ。舞いを舞うのだけれど、やっぱりどこかに妻への引け目というか、遠慮を感じてしまった。そりゃそうでしょう、自分の都合で妻を放り出したのに、その妻が出世して戻り、自分を許してくれるという。しかもその妻は貴人の妻になっているんですから。何不自由のない他人の妻になっていても、それを放って自分と添い遂げたいという健気な妻。泣けます。妻を演じる味方玄師とのキャッチボールが胸に迫る。能ではほとんど見ることのできない微妙な感情の動きを、お二人の息遣い(=気の交流)に感じとってしまう。感情を抽象化するのが能特有の演技ではあるけれど、ここでの気の交流にはそれとは違ったリアリティを感じた。さすがのお二人です。
和歌の徳や夫婦の和合を説くのは『高砂』を思わせる。世阿弥作なんでしょうね。夫婦別れを描いたのに世阿弥作の能、『砧』があるけれど、こちらは男女が逆になっている上、悲劇である。男が都から故郷に戻ったとき、妻はすでに亡き人となっている。『芦刈』がハッピーエンドというのはが、逆に能としては珍しいのでしょう。とはいうものの、こちらの方が後味が格段に良い。ただ、この能の種になった『大和物語』に出てくる「芦刈説話」では悲劇に終わっているという。近々原典にあたりたい。
では例によって「銕仙会」の能楽事典からの解説をお借りする。
作者 世阿弥
素材 『大和物語』『拾遺和歌集』に見える芦刈説話
場所 摂津国難波
季節 春
種類 四番目物、男物狂物
この日の演者一覧です。
シテ 片山九郎右衛門
シテツレ 味方玄
ワキ 宝生欣哉
ワキツレ 則久英志 野口能弘
アイ 野村萬斎
小鼓 曽和鼓堂
大鼓 亀井広忠
笛 左鴻泰弘
後見 青木道喜 立花保向
地謡 大江広祐 梅田嘉宏 橋本忠樹 大江信行
分林道治 観世喜正 浅井文義 古橋正邦