yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「野崎村」in「五月花形歌舞伎」@大阪松竹座5月8日夜の部

「歌舞伎美人」からの配役とみどころは以下。

<配役>
お光 中村 七之助
久松 中村 歌昇
お染 中村 児太郎
後家お常 坂東 竹三郎
百姓久作 坂東 彌十郎

<みどころ>
切ない女心を描き出した恋物語。
 野崎村の百姓久作の家では、娘のお光と養子の久松との祝言を控え、喜びを抑えきれないお光が婚礼の準備に勤しんでいます。そこへ久松が奉公する油屋の娘お染がやって来ます。実はお染と久松は恋仲、一緒になれないのなら心中しようと誓い合います。そんな二人の覚悟を知ったお光は自ら身を引き、尼となる決意をします。迎えに来た油屋の後家お常の配慮により、久松は駕籠、お染は舟で別々に野崎村を後にする姿を、お光は涙ながらに見送るのでした。
 切ない恋を描いた、情感あふれる世話物の名作にご期待ください。

ご存知『新版歌祭文』中単独で切り離して演じられることの多いこの「野崎村」。色々な役者が演じるお光を見てきたが、この日の七之助のものが一番心に響いた。悲しくて、切なくて、その自己犠牲が胸に迫る。それまではおキャンな、勝気な村娘。その娘が、失恋という試練で暴力的に大人になるイニシエーションの儀式を描くのが「野崎村」。今までに見てきた他の役者は、当然かいくぐらなければならない一つの過程としてこのイニシエーションを演じていたけれど、七之助のそれは、抗うお光の心の裡を、その所作、表情を通して余すことなく露わにしていた。ヒステリックになる一歩手前にまで行って、そこで思いとどまる。でも口惜しい、思い切れない。それが最後の最後までそのひたむきな目で久松を見つめる視線に顕れていた。一歩踏み込んだお光解釈だった。おそらくこの狂言の本家本元の大阪の地でこれを演じるという、演じてみせるという彼の強い思いがあるように感じた。

こんな七之助を「相手」にするんですからね。児太郎も大変ですよ。でもね、よかったんですよ、児太郎。彼の演技の卓越に気づいたのは昨年の4月に歌舞伎座で観た『幻想神空海』の春琴役だった。官吏の平凡な妻が化け猫に取り憑かれて妖女に変貌するサマを、生々しく、リアルに描いていた。(一見おとなしくかつ行儀よく映る)児太郎だと、最初気づかないほどの変身ぶり。脱帽だった。まだ22歳?そういえば、お父上にもこの「意外性」がありますよね。

そして今回のお染。本来ならおとなしく控え目な娘として演じなければならない。乳母日傘で育った大店の一人娘ですから。でも驚いたことに、児太郎のお染は過激なまでの積極性を発揮するんです。攻めの一手。こちらもアグレッシブな七之助お光と、いい勝負を見せた。この対決、なんかおかしかった。でも周りの誰も笑っていない。あれ、悲劇ではあるんだけど、この二人はそれをはみ出す何かを醸し出していた!児太郎も七之助と同様、ここが大阪だということを強く意識していたはず。お父上がそうだったように彼もコメディに乗れる人なんだと、納得しながら観ていた。20代の女方が、それも優れた女方が何人もいる現在の歌舞伎。その中でコメディを演って特別に光るのは児太郎なような気が強くした。

ワリを喰った感があったのが歌昇。久松がいかに頼りないダメ男でも、もう少し気概があるように演じた方がよかったのでは。とはいえ、駕籠に乗る前に未練たらしく(?)お光をみているところに、彼の「解釈」は窺えたのではあるけど。

周りを固めた役者が澤瀉屋と中村屋の常連ですからね。もう、最初から勝ったようなもんですよ!彌十郎の久作、竹三郎のお常なんてまさにツボ。とはいえ、こちらも今までに観てきたこの役の役者よりも、ずっと弾け感があった。

また、最後の花道退場。駕籠かきの二人が良かった。それぞれ、播磨屋から中村又之助(又五郎の弟子)、澤瀉屋からは市川猿四郎。コミカルな演技に大向こうさんから「またのすけ!」、「えんしろう!」と掛け声がかかっていた。駕籠かきが漂わせるウキウキした雰囲気と、それを見送るお光と久作との対照が哀しくも美しかった。

以下に本公演のチラシをアップしておく。左端がお光を演じる七之助。

>>