yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「マチュー・ガニオと梅若玄祥との美の饗宴」in 『ダンスマガジン』2015年1月号

図書館で手に取った『ダンスマガジン』に、二人の競演・饗宴の舞台写真が載っているのを見つけ、興奮してしまった。能とバレエとが競演したら、きっと素晴らしい舞台になるだろうとずっと想像していた。それが実現していたと知って、嬉しかったと同時に、見れなかったことに無念さがこみ上げて来た。第一、こういう企画自体を知らなかったんですからね。パリ・オペラ座の来日公演を初めて見たのは2013年、それからずっと彼らの来日公演情報を追っていたら、こういう取りこぼしはしなかったのに。いや、能にそこまで入り込んでいなかったから、この企画をわざわざ見にいったかは疑問かも。

東京では国立能楽堂で、大阪では大阪能楽堂での公演だったよう。『ダンスマガジン』では特集になっていて、舞台写真、それにマチュー・ガニオへのインタビューも掲載されている。普通に考えるとあり得ない組み合わせの舞台。公演情報はバレエ情報を採るのに常々お世話になっている「la dolce vita」さんのブログにこの公演予告が載っている。リンクさせていただく。

美の饗宴2015
絶世の美女達を、能面に隠れ演じる,日本の至宝、能楽師、梅若玄祥。

そして,世界の最高峰、パリ・オペラ座の名舞台を生まれ持った美しい肢体をさらけ出して踊る現代のアポロン、マチュー・ガニオ。

フランスの作曲家、ドビュッシーが残した,名言『芸術は美しい嘘である。』をまさに体現出来る、世界初めての、能とバレエの世界トップの演者による夢のこの公演の為、マンシーニがマチュー用に特別にアレンジした日本初演ソロ作品『それでも地球は動く』、両親が何度も名舞台を披露したプティの夢のように美しいパ・ド・ドゥ『タイス瞑想曲』、妹マリーヌをパートナーにマチューが初めて挑戦します。そして人間国宝、梅若玄祥がプティの名作『タイス瞑想曲』に対抗するように披露する創作能舞等、大阪と東京ともに一夜限りの『美の饗宴』! お見逃しなく。

当日の公演内容は『ダンスマガジン』編集部の解説によると以下。

不老長寿を言祝ぐ能『菊慈童』が梅若玄祥によって舞われた後、マリーヌが登場して『眠れる森の美女』からオーロラのヴァリエーションを優雅に踊る。

休憩を挟んで第二部。プティ振付『タイス』をマチューとマリーヌが踊る。マチューは香気あふれる輝きを放ち、一篇の美しい詩を二人で舞台に描き出す。彼らが退場すると、能管の鋭い音が梅若玄祥を橋掛りに呼び出した。マスネの「タイスの瞑想曲」が再び流れる。玄祥の舞、『タイス瞑想曲』である。プティ作品には明確な物語はないが、こちらはマスネのオペラ『タイス』に拠り、尼の装束で登場。マチューが再び現れて橋掛りで玄祥を見つめ合う。二人が同じ身ぶりを何度か繰り返す場面は不思議な美しさに満ちていた。

最後に踊られたのが、マンシーニが振付たマチューのソロ「それでも地球は回る」。ヴィヴァルディのアリアに乗せた内省的なその踊りは、表題のガリレオの有名な言葉と響き合い、さまざまなイメージを喚起する。能楽堂の空間がもっともよく活きたダンス作品はこのソロだろう。

ネットでも画像が見られる。以下にお借りする。まずチラシ、そしてガニオ兄妹の舞踊。そして梅若玄祥とマチュー。

その場の情景が生き生きと立ち上がってくる。読んでいて興奮が抑えられなかった。なぜか先日シネマ版でみたパリ・オペラ座公演、『バレエ・リュス』中、ニジンスキーが振付け、ニコラ・ル・リッシュが踊った「牧神の午後」を思い出していた。

この実験的舞台の主催者は「ダンスウエスト」というエイジェント。ここは先だって三田で見た「風の能」の主催者でもある。能の枠を超え出た試みを後押ししているエイジェントのよう。

上念省三氏のブログ、「関西のダンスやお芝居などなど」に詳細と批評が。優れた論考。能舞台を「下降する空間」と捉え、「飛翔する」バレエがこの空間とどう折り合いをつけたのか、あるいは「利用」したのかを、「ガニオ兄妹はその重力のようなものに対して、抜き手で泳ぎくぐるような形で踊りきったように思う」という言葉で賞賛されている。頷ける。

『ダンスマガジン』には多くの写真が載っていて、それらからも能舞台の空間を、ガニオ兄妹がどのように「攻略」し、自分たちの「もの」に変容させたのかが、ある程度わかる。でもやっぱりというべきか、外へ外へと突き抜けようとするバレエの踊りは、内へ内へと内向するエネルギーを想定している能空間とは齟齬があるように見えた。現場にいたらその齟齬は、バレエダンサーの優れた技巧によって多少は減じたのかもしれないのだけど。

ガニオ兄妹はこの齟齬をできるだけ目立たなくする工夫をしている。それが裸体に近い肌色の衣装だろう。むき出しに見える人の身体。バレエの身体。それと際立った対象をなすのが能のシテの身体。これ以上にないほど元の身体を「隠して」いる。この二つの身体性が舞台で時間を共有することが、ある意味奇蹟。事件と言ってもいいかもしれない。演者が表象する内的エネルギーのベクトル。それを極限まで抑え込み、その果ての解放を舞という形にする能のシテ。かたや、その内的エネルギーを、これ以上ないほどに過激に迸る正のベクトルへと転化するバレエダンサー。何か起きてはいけない事件がそこに出現した、そんな感じが、舞台写真から見て取れる。事件を目撃、共有できたその日の観客は、実に幸運だった。

これはおそらく梅若玄祥氏の提案で実現したのだろう。海外公演が多い玄祥師らしい。また能舞台を超え出て、新しい試みに果敢に挑戦する彼らしい。次に機会があるなら、絶対に逃さない。