yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

こころに激震——現代能『冥府行〜ネキア』能楽座大淀町公演@大淀町文化会館あらかしホール9月3日

この企画を最初に立てたのはギリシャ人演出家のミハイル・マルマリノス氏。賛同した人間国宝の能楽師、梅若玄祥さんが二役で挑み、他の能役者を巻き込んでの公演だった。

昨日の公演、小鼓は人間国宝の大倉源次郎さん。この大淀町桧垣本地区は室町時代、囃子方が優れていたとされる「桧垣本猿楽座」の拠点だったという。大倉源次郎さんはここで「ちびっ子桧垣本座」を監修されている。大倉源次郎さんと笛方の藤田六郎兵衛さんのお二人は公演に先立って桧垣本八幡神社に参拝され、演奏の奉納をされた。今回の公演自体が大倉源次郎さん発起による(2000年に始まった)「桧垣本猿楽の復興」のプロジェクトの一環。すばらしい企画。

会場は満員で、熱気があふれていた。近隣の方がほとんどだったのだろうけど、遠くから来られた方もいらっしゃったよう。それだけの価値のある舞台だった。

『冥府行〜ネキア』が最初に乗ったのは世界最古の劇場「エピダウロス古代円形劇場(世界遺産)」。作品はホメロスの叙事詩『オデュッセイア』中の「ネキア」を能仕立てにしたもの。これは「世界遺産で神話を舞う〜人間国宝・能楽師とギリシャ人演出家〜」として、BS朝日で放映されたらしい。そのあと、2015年7月に国立能楽堂で、さらに2016年10月に京都観世会館で再演された。「芸術文化支援事業」の一環としてこの能公演の日本初演の支援をした「アーツカウンシル東京」。そのサイトに載った紹介文が要領を得ているのでお借りする。以下。

本事業は、ホメロス作古代ギリシアの長編英雄叙事詩『オデュッセイア』から第11歌【ネキアの章】を能楽の手法で上演する企画である。現代ギリシアを代表する演出家ミハイル・マルマリノスは、ホメロスの叙事詩は、歌であり文学ではなく、また能楽は、演劇ではなく歌である、という。すなわちホメロスの11歌「ネキア」(邦訳・冥府行)を舞台上に具現化できる唯一の手段が能楽であるという確信にこの作品は起因する。トロイ戦争でギリシア軍を勝利に導いた英雄・オデュッセウスが故国に辿りつく為に必要な事を知るため冥界に降りる冥府行を表現する手法として能の劇構造、身体表現を用いる能とギリシア古代演劇のコラボレーションである。今日のギリシア、キリスト教などを含む現代の概念では理解できない死者と生者がお互いを行き来する世界観の表現に、古代ギリシア演劇の遺伝子を持つと想像させる能楽の手法を用いて臨む日希合作のプロジェクトである。

ギリシアの叙事詩と日本の能とのコラボ。この二つの相性がいいのは素人目にも明らか。亡霊が登場、それを鎮める鎮魂がテーマの一つである点で、両者は近似形をなしている。さらに、形態的にも近い。「古代ギリシアにおいて詩は音楽をつけて吟唱され、文芸を意味する語『ムーシケー』は同時に『音楽』を意味した」(Wiki より)とあるけれど、これはそのまま能楽にも当てはまるだろう。叙事詩にはギリシア悲劇のようなコロスは登場しないけれど、この『冥界行』には設定されていた。コロスはそのまま地謡になる。これほどまでに世界観が近いジャンルは世界の演劇では類を見ないだろう。それに気づいたのが、フランス人とかではなくギリシャ人演出家だったというのは意味深長。この舞台のプロデューサーたちと演者一覧は以下。

能本脚本   笠井賢一
振付・作舞  梅若玄祥
演出構成   ミハイル・マルマリノス
能楽囃子監修 大倉源次郎

テレシアス(預言者) 梅若玄祥
キルケー(鷹の魔女) 梅若玄祥
オデュッセウス    観世善正
アンチクレア(母)  馬野正基
ペネロペイア(妻)  角当直隆
エイペノル(戦友)  川口晃平
狂言・俳(おかし)  山本則重
狂言・優(うれい)  山本則秀
コロス(地謡)    山崎正道、梅若基徳、小田切康陽、馬野正基
           角当直隆、谷本健吾、松山隆之、川口晃平、
           御厨誠吾、大槻裕一、西尾萌

笛   藤田六郎兵衛
小鼓  大倉源次郎
小鼓  成田達志
大鼓  山本哲也
太鼓  前川光範

後見  赤松禎友、竹富康之

シテの玄祥さん、何と言っても声がすばらしい。今回は現代語での上演だったので、アーティキュレーションが際立っていた。どちらかというと柔らかい声調。品格の高さが匂い立つ。それがすでに死者となっているテレシアス、そして魔女キルケーを表象するのにぴったり。

オデュッセウス役の観世善正さん、勇猛な戦士というよりも、もっと分別のある中年の騎士の感じを出していて、オデュッセウスという人物とその苦悩が身近に感じられた。

演出で最もよかったのが、地謡が登場人物になったり、コロスになったりして舞台を重要に動き回るところ。ある時はダンスのような群舞、ある時は剣戟。これには目を瞠った。それも一斉にだったり、二、三人ずつだったり。身体をくるくると回しながらの舞はまるでバレエのようで、美しかった。ミューズ(音楽)の精が舞っているかのよう。これは今まで見てきた能舞台にはない「実験」に思えた。あたらしい領野が拓けたような感じがした。また、オデュッセウスが冥界で母に逢う場面の演出は感動的だった。母は亡霊になっているので、彼が捕まえようとしても、それをすり抜けてしまう。なんどもなんども、その度に彼の悲しみが深まる。能の舞台とは思えないかなり動きのある舞台。

それを後押しするのが囃子方。このメンバーを見れば、どれほどの充実だったかは想像できるはず。小鼓が大倉源次郎さん、成田達志さんのお二人というのが、効果的だった。最高の競演。藤田六郎兵衛さんの笛、ときにはきっぱりと、ときには嫋嫋と、まるで天人の奏でる音楽のよう。その意味でもミューズへの捧げものになっていた。大鼓の山本哲也さんのパーンと打つ音色もしっかりと存在主張を忘れないでいた。太鼓の前川光範さんも外見からは想像もつかない?ハイテンションで地謡を盛り上げる。こんなに最高の名手たちが一堂に会しての演奏、しばらくは聴けないでしょう。

単に異文化交流、コラボというにはあまりにも深い舞台。見る側が消化するのにも多少の時間を要する。少なくとも私には。とはいえ、これほどの作品、もっと遍く多くの人にみてもらいたい。ギリシャでは演劇評論家協会の大賞を獲ったようだけど、世界演劇祭に出しても大賞が獲れるレベルだった。すごいことが今能楽の世界で起きているんだと、改めて感じ入った。