yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

『金閣寺』での児太郎の雪姫が思いっきりモダン in「秀山祭九月大歌舞伎」@歌舞伎座 9月26日昼の部(千秋楽)

歌舞伎公演は前日の夜の部とこの千秋楽の昼の部とを二日続けて見たのだけれど、児太郎の雪姫がもっとも見甲斐があった。女方では近年ない大ヒットだと思う。さすが東の成駒屋の継承者。

今までに雪姫を演じた女方での最右翼は、六世歌右衛門の雪姫だろう。ただ、私は見ていない。玉三郎の雪姫はDVDで見ている。実際の舞台では梅枝、雀右衛門、七之助の演じた雪姫を見ている。赤姫のひとつであるこの雪姫、歌舞伎を見始めた頃から、私にとっては憧れの対象だった。ただ、期待が大きかった分、実際の舞台での雪姫には少なからず失望してきたのも事実。いわゆる古典にカテゴライズされる演目だから、今までの決まり、コード等にがんじがらめに縛られているのだとは推測できたけれど、旧い演じ方を踏襲しているだけに見え、役者個人の創意工夫のようなものが窺えなかった。つまらなかった。

児太郎の雪姫は今まで見たものとまるで違っていた。弱々しく、嗜虐性をかきたてる雪姫ではない。生き生きとしていて、囚われの身であるという劣勢を跳ね返すたくましさを感じた。女方にしてはしっかりとした体躯、そして高い身長。その身体を自在にたわませ、くねらせることで生まれるダイナミズムは、今までに見てきた雪姫にはなかったもの。腰の使い方が素晴らしい。ここまでの身体のデフォルメ化は、従来の雪姫解釈ではおそらく無縁のものだっただろう。女方では身長が高いのがマイナスになるというのが「通説」?玉三郎もそれで苦労したとか。ところが最近の若手女方は背が高い人が多い。七之助、新悟、梅枝、米吉、そして児太郎である。とくに児太郎は目立つ長身。今 Wikiに当たったら、なんと中高時代はラグビー部だったとか。あの従来の女方の「なよなよ」感とはまるで違う押し出しが、納得できた。

体格はそのまま精神にも反映するような気がする。立ち役に対し、いつも控え目でいる(いなくてはならない)女方は、どこか嗜虐的な雰囲気を醸し出すことがあるけれど、児太郎の場合はその嗜虐性を上塗りするような強靭さが垣間見える。嗜虐はたしかにあるのだけれど、それをねじ伏せるだけの自己顕示を見せる。いわば二重写しになったマゾ・サド感がある。そこがとても他の女方役者にはない魅力である。新しいタイプの「女方役者」が登場したように思う。

このように、児太郎がさらっていった感のある『金閣寺 祇園祭礼信仰記』ではあるけれど、やっぱり福助の復活も見逃せない。予想通り、慶寿院尼役でほんの少しだけ登場だけれど、しっかりした福助節は健在。美しさもそのまま。客席からは掛け声と拍手が鳴り止まなかった。ちょっとホロリとしてしまった。

以下に「歌舞伎美人」からお借りした「演者一覧」と「みどころ」を。

演者

此下東吉実は真柴久吉
雪姫
狩野之介直信
松永鬼藤太
此下家臣春川左近
同   戸田隼人
同   内海三郎
同   山下主水
腰元
腰元
十河軍平実は佐藤正清
松永大膳
慶寿院尼

梅玉
児太郎
幸四郎
坂東亀蔵
橋之助
男寅
福之助
玉太郎
梅花
歌女之丞
彌十郎
松緑
福助

 

みどころ

豪華絢爛な義太夫狂言の傑作

 天下を狙う松永大膳は、将軍足利義輝の母である慶寿院尼を金閣に幽閉しています。共に幽閉している雪姫に思いを寄せる大膳は、夫の狩野之介直信に代わり金閣の天井に龍を描くか、自らに従うか迫っています。そこへ此下東吉が現れ大膳の家臣として召し抱えられます。一方、雪姫は龍を描くことを拒んだため、桜に縛り付けられ、大膳は直信の処刑を命じます。嘆き悲しむ雪姫が、桜の花びらをかき集め、爪先で鼠を描くと…。
 金閣寺を舞台とした時代物の名作をお楽しみください。