yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

児太郎が阿古屋を演じた「阿古屋」『壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)』@歌舞伎座 12月23日夜の部

以下が、「歌舞伎美人」からお借りした配役とみどころ。

遊君阿古屋
遊君阿古屋
秩父庄司重忠
榛沢六郎
岩永左衛門

梅枝(4・8・12・16・22・25日)
児太郎(5・9・15・19・23日)
彦三郎
坂東亀蔵
玉三郎

 

目にも耳にも麗しい豪華な女方屈指の名作

平家滅亡後、平家の武将悪七兵衛景清の行方を問い質すため、景清の愛人である遊君阿古屋が問注所に引き出されます。景清の所在を知らないという阿古屋を岩永左衛門は拷問にかけようとしますが、詮議の指揮を執る重忠は、阿古屋に琴、三味線、胡弓を弾かせることで心の内を推し量ろうとします。言葉に嘘があるならば、調べに乱れが表れるとされるなか、阿古屋は…。


阿古屋は三曲を実際に演奏しながら微細な心情を表現する女方の大役。音曲と共に華やかな舞台をご堪能ください。

児太郎の阿古屋を見たいがために、この23日のチケットを確保した。もちろん、梅枝の阿古屋も見る機会があれば、それに越したことはないのだけれど、関西在住の身としては、いずれかを選択をせざるを得ない。玉三郎の阿古屋は以前に見て、記事にもしている。

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いささかがっかりしたというのが正直な感想。以前に見た玉三郎の阿古屋と比較するのはフェアでないとは思うけれど、かなりの差があったのでは。私は児太郎が次代の歌舞伎女方を担う最右翼だと確信しているので、肩透かしにあった感じは否めない。玉三郎が今の児太郎の年齢の時に、どれほどのものだったか知らないので、二人を比べるのはいささか無理があるかもしれない。多少の時間がかかるかもしれないけれど、彼独自の優れた「阿古屋」を、いずれは私たちに魅せてくれるだろう。

児太郎が秀でていると私が感じてきたのは、やはり彼の肉感的身体にあったのだと、改めて感じ至った。歌舞伎では(能ほどではないにせよ)、リアルな身体性は極力捨象される。日常の「稽古」と称する「型はめ作業」によって、生の身体性は一つの型として、記号化される。伝統歌舞伎の「身体=型」へと鋳型(mold)にはめこまれる。

児太郎も、稽古というルーティーン化された時間の蓄積を、その体に嵌め込まれざるを得なかったはず。ただ、今まで舞台で見てきた児太郎は、お仕着せの型を大胆にはみ出す何かを提示して見せた。少なくとも私が彼の舞台に感じたのは、この「はみ出し」だった。自身の肉体を記号化することにあえて抵抗し、それを開示してみせる。これは今までの歌舞伎役者にはなかった大きな「逸脱」であるように感じた。若い役者の挑戦であり、非常に貴重なものだと思えた。

しかし、今度の舞台ではこの「逸脱」が効かない。なにしろ、この女方最右翼の役である「阿古屋」は、今までの連綿と続く女方役者の工夫、魂胆等がぎっしりと詰め込まれ、印を押された役柄。一筋縄では組みしだくことのできない役。型をはみ出そうにも、あまりにも堅牢。

しかも、このBプロでは、岩永役の玉三郎(意外や意外!)が、文楽人形になって(人形振り)で演じたことが「型の堅牢化」に拍車をかけている。Aプロでは阿古屋を玉三郎、岩永を松緑が演じたのだが、人形振りはなかったのでは?松緑が人形振りを採用したとは思えないので。

この工夫自体、歌舞伎の型の堅牢、そして人形浄瑠璃堅牢という、二重の縛りですよ。「これは古典なので、純粋に百パーセント古典で!」という玉三郎の声なき声が聞こえたような。もともと阿古屋役自体が難しいところ、さらにハードルを上げた?若手役者を「しごいて」、早く一人前になるように、背中を押す玉三郎の気持ちが伝わってきた。玉三郎自身、若手を自分の水準にまで上げるのに、ある種の焦りを感じているのかもしれない。時間はいつまでもあるわけではないので。

あえて自身の岩永を「人形」に仕立てた玉三郎の「意図」を慮るなら、彼の中にある阿古屋の理想形は、吉田簑助の阿古屋だったのでは。私の中の理想形も簑助の阿古屋だから。あの首から肩にかけてのはんなりとした色気。微妙な身体のシナ。生の肉体よりはるかに肉体らしいのに、雑味がない。しかも美しい。完璧な一つの理想形を形作っている。で、これが舞台の不思議な魔術なのだけれど、阿古屋を演じる児太郎に、玉三郎の阿古屋ではなく簑助の阿古屋が被ってきた。文楽をよく見ている人は、おそらく同じ印象を持ったのではないだろうか。玉三郎の「意図」も、そこにあったのだと推察できた。彼も歌舞伎役者の「阿古屋」ではなく、簑助の女性美身体の極地を具現化した「阿古屋」に、目指す型の完成を見ていたように感じた。

 テクニカルなことを言えば、児太郎、胡弓はよかったのだけれど、琴と三味線はまだまだだった。児太郎の琴演奏では、床の三味線の方々が、三味線演奏では、別に出た床の三味線と長唄衆がサポートされていた。今後の課題だろう。でもとにかく堂々としていたのには、ホッとした。なかなか肝の座った逸材ですね、児太郎は。しかも、自分に陶酔するタイプではなく、冷静に自身の技量を推し量れる人でもあるだろう。その意味では、玉三郎の後継者として、心強い候補者であると思う。