まず味方玄師のサイトにアップされていた公演チラシが以下。
チラシにもあるけれど、当日の演者は以下。
前シテ 尉 味方玄
後シテ 源融の霊 味方玄
ワキ 旅僧 宝生欣哉
アイ 六条辺の者 小笠原匡
笛 杉信太朗
小鼓 船戸昭弘
大鼓 河村大
太鼓 前川光範
後見 味方團 河村和貴
地謡 大江広祐 河村和晃 梅田嘉弘 橋本忠樹
片山伸吾 武田邦弘 片山九郎右衛門 古橋正邦
さらに、「銕仙会」の能楽事典に載っている曲目解説を以下にお借りする。
作者 世阿弥
場所 京都六条 河原の院 (現在の京都市下京区)
季節 仲秋 十五夜の夜
分類 五番目もの 貴人もの
東国出身の僧(ワキ)が京都六条の「河原の院」に着くと、汐汲みの老人(前シテ)が現れる。老人は僧に、この地は昔の源融の邸宅の跡であると教え、二人は河原の院の情趣をともに楽しんでいたが、老人は源融の物語を語ると、昔を慕って泣き崩れてしまう。やがて、僧に請われて近隣の名所を教えていた老人は、汐を汲もうと言うと、そのまま汐曇りの中に姿を消してしまうのだった。この老人こそ、源融の霊であった。その夜、僧の夢の中に源融の霊(後シテ)が在りし日の姿で現れると、月光のもとで、懐旧の舞を舞うのであった。
今年の中秋の明月は9月24日(太陰暦8月15日)。まさにこの日。この演目がいかに「月」とゆかりがあるかが、味方健師が解説しておられる。当日いただいたチラシに載った一部が以下。
融は月の曲である。前シテの第一声が『月もはや』、後シテの最終句が『月もはや』。すなわち、「月もはや出汐」の頃に、融の懐旧の魂の影法師である老人が姿をみせ、「月もはや影かたぶく」頃に、ありし日の融の姿が、その月にむかって消えて行くのである。すなわち、月とともに融の亡心は消滅するのだ。世阿弥が一通りの応永型の修羅遍歴を終えて、ふたたび鬼能に「却来」(回帰)した《鵺》とおなじ造りである。
この日は前日の雨模様の天気とは打って変って晴れていた。本願寺の能舞台に中庭を挟んで向かい合った客席は寺内なので、屋内のすべての戸は開け放たれ、そこを爽やかな風が吹き抜けて行く。午後の日差しはまだ眩しいもののそれほどの熱気はなく、穏やかに中庭に降り注いでいた。能舞台と観客席のある広間をこの中庭が隔てていた。このシチュエーション、世阿弥が能を貴族や僧侶たちに見せたもときのものと近いのだろう。現在の能舞台での舞台と観客との間よりずっと距離がある。中庭効果とでもいうのか、いつも見ている能舞台とは違った空間に身を置いている感じが強くした。時折上空を飛来する飛行機の音も聞こえる。外部と隔絶しているような、でもどこかで繋がっているような、不思議な感覚。
もちろん上記にあるように「月」のイメージが全編を覆っているのではあるけれど、それ以外にもイメジャリー、メタファー、さらにはアリュージョンが詞章には溢れている。それらが複層的に絡み合い、重なり合って、月光ならぬ午後の陽に照らされた寺院の庭に投射される。そういう背景を理解するにはそれなりの知識が要請されるだろう。しかしそれがなくても、目の前に広がる光景に謡が醸造するイメジャリーの世界がかぶることで、客の想像力はかきたてられ、挑発される。能舞台と庭という確かな現実。その現実を無力化してしまうほどの非現実の、幻想の力。その幻想は謡の言葉と、お囃子の音楽とで人工的にそこに造影されたもの。そのあい間をぬい、双方を往来するシテ。この「往来」を演じることができる能楽師はそう多くはないと思う。そこは味方玄師である。このたゆといを表現してみごとだった。
『融』を特徴づけるのは後場の「早舞」だという。数段の早舞の後、シテは橋掛りに行って、そこに佇むという「くつろぎ」の演技。その後、ふたたび早舞が数段入る。そして最後は急の舞で締めるという演出になる。早舞の部分を勘定していたわけではないけれど、縦横無尽に舞台を舞う早舞の数が並外れて多い印象を持った。その早舞、一つとして同じでない。当方初心者なので、この辺りをもっと注意すればよかったと後悔。舞の優雅さに見惚れて、そしてのめり込んでしまったので、かりに「予習」していったとしてもうわの空だったかもしれない。永遠に続くと思われた舞。それが突如、アップテンポのより速い舞になる。これが美しいと同時に、シテの情念をより明確に示している。それを「銕仙会」のみどころ紹介が以下のように解析している。
執念は内に秘めながらも、月光のもと優雅に舞を舞う華やかな貴公子の姿が前面に押し出されており、融の物語の中でも過去への追憶のほうに主眼がおかれています。今や廃墟となってしまった河原の院に現れ、二度と戻ることのない昔を偲んで舞を舞う…。哀愁を誘う荒廃した邸宅と、美しく雅びな舞い姿の中に、この能の情趣はあるといえましょう。
源融は政治的には晩年不遇をかこったとか。世阿弥以前にも融を扱った能はあったものの、それらは「現世への恨み、怨念といったものに注目し、妄執ゆえに地獄に堕ちて苦しむ融の姿を描いた能」(「銕仙会」の「みどころ」より)であったという。その融を、世阿弥は違ったアプローチで描き出したわけである。「妄執」をテーマにするのではなく、過ぎ去った栄華への追憶とふたたび戻ることのない過去への愛惜の念が、より強く前面に押しだされている。
味方玄師の後場での装束は白い狩衣姿で、融の優雅さとともに、どこか儚さを漂わせる。面は中将で、憂いを帯びた表情が胸に迫る。面、衣装がシテの心の裡を表現しているのだけれど、それ以上に玄師の舞の曇りのなさ、雑音の排除が、融という人物の置かれた状況と、それに拮抗する彼の内面を表していた。眼前に展開する能の舞台が、どこか別世界での出来事のように思えた。
これは世阿弥晩年の作だということで、納得する部分があった。華やかな複式夢幻能とは違う種類の曲。より悟りを開いた人間の手になるものだと思わせる。源融と同じく、世阿弥自身も足利義満に愛された栄華は遠く過ぎさり、今は佐渡に流刑の身(京都に帰されたという説もあり)。我が身の来し方行く末がそのまま融の大臣の生涯に被ったことだろう。それがこの能全体をおおう哀愁となって滲み出ているのだと思う。その哀愁を味方玄師のシテはあますことなく具現化して魅せた。
杉信太朗師の笛は力強さと繊細さとのふきわけがみごとだった。河村大師の大鼓もいつもながらの力強さ。前川光範師の太鼓を聴けたのがなによりも嬉しかった。午後の日差しを受けて、終始眩しそうにしておられた。