yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

岡田准一x大倉源次郎「能の謡と囃子はテキストを一切変えることができない!」

なぜ謡の人は8人全員が合わせられるんだろう。それはテキストが厳密に決まっていて、個人が勝手にそれを自分風に変えることができないから。これに気づいたのがつい先日。youtubeで岡田准一さん司会のラジオ番組(?)に収録された大倉源次郎さんの「解説」を聴いてから。それが、「大倉源次郎さん、能楽囃子方ってどんな世界ですか?」

最近何回かお邪魔した社中会で拝見(拝聴)したお弟子さんたちの謡は揃っている。また、能役者の方の地謡も完璧に揃っている。

これは例えばピアノ演奏などとは違う能の特徴。ピアノの演奏なら、演奏者が緩急の呼吸でふくらましたり引いたりできる。謡にはまったくそれがない。強弱、緩急、テンポ全てがきちんと決まっている。それはお囃子にもいえるのだと、源次郎さんの解説でわかった。「これだけ聴いてきて、今ごろになって初めてきづいたの?」と、自身の迂闊さを責める。

だから地謡八人が、その場で即興に合わせて謡うのが可能なんですね。あるいはお囃子の方たちが違った流派でも寸分の狂いもなく合奏できるんですね。これは他のどんなジャンルの音楽とも違う能楽の特徴だと思う。即興が必ず入るジャズ等とは際立った対照をなしている。

お話の中で語られた源次郎さんの能楽の特色は以下。

即興がなく、全部決まっている。
稽古バラバラ 合わせる稽古ではない。
テキストが出来上がっている。
プログラムが決まった段階でそれを打てる実力者を集める。

まるでロボットが楽器を打っている、あるいは謡っているかのような「正確さ」「精密さ」。でも違うんですよね、ロボットとは。ここに能楽の凄みも面白さも集約されているように思う。極めてインテンシブな世界。演者のみならず見ている(聴いている)側にも緊張感を強いる。その場に気が張り詰めている。それはそこに一期一会の世界を創り出すから。「舞台は一回限りというのが基本的考え方」と源次郎さんはおっしゃっている。

終始面を付けて舞うシテにもそれが顕著に示されている。「役者を観にゆくというより、作品を見にゆく」ものであり、「面をつけながらも、その人しかできないものを創り出して行く。それが能の醍醐味」だという。他の演劇とは決定的な違う。まるで禅問答のような世界が展開する。自己を消すことで、己をくっきりと出す。それは見ている側にも照射する。能の舞台を見ていると、自分の見る力が試されていると感じることがあるのは、そこなんだ。改めてそれに気づかされている。

この岡田准一さんとの対談は続きがある。それが「能や狂言を楽しめるとっておきの方法ってありますか?」youtubeへのアップをリンクしておく。