羽生結弦選手の今回の国別対抗戦をみて、既視感があった。これは「世界フィギュアスケート選手権2017」ででも私たちが目撃したことではないか。傷ついた自己像、それが自然界にとけこむことで癒され、やがて再び新しく甦るという場に私たちは立ち会った。再びその過程を目撃した。こういう連環が必然であるような、そんな想いにとらわれてしまう。羽生結弦さんの演技をギリシア的な円環時間の中に置いてみてしまう。そこに人を人智を超えた何かが作用しているのではないかって、感じてしまう。
それも彼が何かの「必然」の中に生まれ落ちた人、いわば「徴つき」の人だからかもしれない。こういうドラマを生きるように選ばれし人。演技そのものがアスリートの枠を超え出てしまい、違った次元に行ってしまった。アスリートとしてのフィギュアスケーターは本来演技を「生きる」者ではなく競う者。羽生選手の場合、演技を生きてしまう。そうせざるを得ない。もちろん「競う」という要素はアスリートである以上ついて回る。私たち観る側の者もそれを「評価」する。でもそういう競争の規準では評価できない演技を、羽生結弦選手に見てしまう。それは個別のパフォーマンスの質量にもあるのだけど、それ以上にパフォーマンスが生成する場や時間軸が何かこの世ではないところと繋がっているような、そんな幻視にとらわれてしまうからだろう。
フリーの「Hope & Legacy」の流れるような演技。木々の間を吹き抜ける風、サラサラと流れる水、それらに戯れ、身を委ねる。まさに自然界に遊ぶ精霊そのもの。その曲が具現化する役は彼にとってはごく自然に体現できるもの。ごく自然に入り込めるもの。、曲の主題、そして曲に仮託された役を彼はその全生命をかけて生きようとしている。裸身の彼の実在を私たちはそこに強く感じる。その実在の向こうに私たちがみるのは、ひとつひとつの実在を超え出たもっと大きな実在。実在を感じるところまでは演劇ではあるけれど、それを超え出たものは宗教的な何かになってしまう。
私たちが羽生結弦選手の演技をみて敬虔な気持ちになるのは、彼の際立った美しさと高い精神性もあるだろうけど、この宗教的何かを強く感じさせられるからだろう。優れた能の舞台を観るときと同様の感慨にとらわれる。