yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

求道者/メディアムとしての羽生結弦選手

羽生結弦選手がSPで選んだプリンスの「Let’s Go Crazy」。彼はこの日(国別対抗戦)の演技のあとで、「今日がプリンスの誕生日(4月21日)だったのに、申し訳ない」と、つぶやいたそう。

プリンスの持つ背景と生い立ち、そして生き様の発露が形になった「Let’s Go Crazy」。いわゆる素直な曲ではない。曲想、歌詞ともに難解。だから他選手がおよそ選ぶことはない。斬新と奇抜と。ジェフリーバトル氏は、おそらくそこを羽生選手が感じ取り、それを表現できると信頼して振り付けたのだろう。そこで羽生選手が出くわさなくてはならない何重もの齟齬と、それに対峙しなくてはならない内面の葛藤、重さは理解できていなかったかもしれない。

もちろん子供っぽい理解だと上っ面だけで済ませることができる。曲に対峙する悩みもない。アスリートとして点を稼ぐというのだけが狙いなら、初手からこの曲は選ばなかった?もちろんこんな難解な曲でも、あっさりと演技することはできただろう。整った形にまとめることもできたかもしれない。イケイケ、ノリノリの曲調だけを拾えば、それは大いに可能だっただろう。しかし羽生選手が演技で表現しよとしたのはプリンスのこの曲のエッセンスとでもいうべきもの。それをメディアム(仲介者、霊媒)として、スケートリンクに再現しようとしたのだろう。そうせざるを得ないのが羽生結弦選手が羽生結弦であるところ。彼が纏っているメディアム的な何か。それはアスリートとしての彼のあり方を部分的にせよ否定するものでもある。彼が背負ってしまった必然の重さを思うと、苦しくなる。

この曲の根底に横たわるテーマ、そこに立ち上がってくる「プリンス」(という役の)人物、それに演技者として「裸身」で対峙する羽生選手。それは彼の存在をかけての理解、いわば全人的理解を要請するもの。だけどそこにはどうしても飛び越えられない溝がある。羽生選手はこの齟齬を、この曲を滑る際に感じてしまうのかもしれない。それがあの久石譲作曲の「Hope & Legacy」を滑るときのあの一体感、自然さとの違いなのかもしれない。

それは逆に見れば、彼の中にプリンスの曲が抵抗を持って喰い込んでしまったことの証である。一人の演技者として、なにげなく、無邪気にはもはや滑れない。それは羽生結弦選手のあまりにも曲に入り込んでしまう霊媒体質とでもいうべきものに、起因しているように思われる。

プリンスのこの曲、キリスト教的な土壌にブードゥ教的異端が寄生した感がある。異文化と異端の強烈な香りがする。プリンスのpossessed/ protean 臭が強烈に匂い立つ。それが洗練と土着的泥臭さのアマルガムを醸し出している。キリスト教の天使と異端の悪魔的なものが同時に立ち上がってくる。

そこに自分を沿わせようとする羽生結弦選手。しかし、一筋縄ではゆかない理解。重石を背負わされているかのような困難さ。こうなるともはや技術だけでは表現するには無理。取りこぼしができる。それを限りなく完成度を高めながら表現しようと挑戦する羽生結弦選手。

羽生結弦選手がリンクに登場するまでイヤホンで聴いていたのはおそらくはこの曲?曲に入り込み、それを纏って(プリンスを憑依して)演技をスタートするという彼の気概を強く感じる。しかし、滑り込めば滑り込むだけ、ちょっとした齟齬がそのまま演技のミスに繋がってしまう。それを「プリンスにすまない」という表現で言葉にした結弦さん。「技術」だけに特化できない、プリンスの内的世界を具現化しようとする彼の強い想いが、明らかになっている。

この曲から「解放」されて、私としてはホッとしたといのが正直な感想。でも羽生結弦という人は、きっと次回も「到達不能」と思われる何かに挑戦するのだろう。挑み続けるのだろう。それが人をこれほどまでに惹きつけて離さない、彼が彼である所以なのかもしれない。