yoshiepen’s journal

さまざまな領野が摩擦しあい、融合し、発展するこの今のこの革命的な波に身を任せ、純な目と心をもって、わくわくしながら毎日を生きていたいと願っています。

「世界が彼にまた恋をする」羽生結弦選手@世界選手権2017

タイトルは4月3日付けでyoutubeにアップされていた山本まどかさんのものをそのまま使わせていただいた。あまりにもぴったりのタイトル、ありがとうございます。動画をリンクしておく。まどかさんの桜さんという方への返信コメントもステキ。
「桜さまコメントありがとうございます。本当に、優雅でした。疲れのせいか、ショートの結果が残念だったせいか、優勝しても、どこか奥ゆかしい感じがして、それがまた趣深く、美しく感じました。>>最もお似合いの表彰台の真ん中まさしくおっしゃる通りですね♪ショートで熱狂し、フリーで泣いて、EXで癒され、かなり感情のふり幅の大きな日が続きましたが、応援できて幸せですよね♪_」

そう、「奥ゆかしい感じ」こそが羽生結弦選手なんですよね。何か人を超えた高みにある存在に対しての「畏怖」のようなものを感じる。だからこそ、彼の演技をみる人は、あれほどまでに惹きつけられるのだろう。

中学校の教室の教壇上に「主を畏れよ」という聖書からの金言が掲げてあった。「Fear of the Lord」の翻訳。「畏れ」とは恐怖ではなく、絶対者(deity)への敬い (respect)、畏敬(awe)、そして恭順 (submission) だと、大分経ってからわかった。羽生結弦さんの演技がいかにアグレシブでイケイケなものであっても、この「畏れ」があるように感じる。それがキリスト教的な「絶対者=神」であるのか、美の女神に対してのものなのか、はたまた汎神論的な神・宇宙・自然が一体となったものなのか。

彼がフリーで使った久石譲作曲の「Hope & Legacy」には、自然との一体感が強く出ている。宇宙の広がりと、そこに守られてある人間存在を意識した曲。あのすでに伝説になった感のある演技で、羽生結弦選手が具現化させたのが、この一体感、そしてそこからくる安らぎだった。「過激な」(extraordinary) ジャンプは、その一体感を分節するもの?だからある意味、必然。

「SEIMEI」の時にもそれは強くあった。あそこでは「天—人—地」のつながりが表現されていた。環の中心にいるヒトという存在とそれを取り巻く宇宙が。今期のフリー曲は「SEIMEI」の続きといえるかも。彼が表現者としていかに並外れた人であるかがわかる。と同時に、その地上的な評価を超えた何かを纏っていることも。それが「畏れ」。彼が他のどの選手も醸し出せないもの。彼が生まれついての「求道者」たる所以。

エキシビションの「白鳥」もその流れで見ると、違った様相が立ち上がる。彼の「白鳥」、あれは一度は生を諦めた白鳥が再生しているんですよね。その甦りのドラマをどこまでも静かに、なめらかに、優しく演じる羽生選手。現世的な復活ではなく、大きな宇宙に一体化することでの「甦り」。

そんな羽生結弦選手を、現世で、同時代的に見ることができる幸運。彼に見ほれ、恋し、そして癒される幸運。私たちは恵まれています。